光の勇者

□第二章 闇の兆し
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§小さな足の大きな一歩§



 ソフィアは一人フェイトの帰りを待っていた。窓の縁に両の腕をついて、頭を肘の上に寝かせる。指が手入れの行き届いた髪を絡むことなく撫でていく。癖の全くない銀色の綺麗なストレート、混ざるのは時折聞こえてくるため息だけ。洋服の裾を弄んでは、ただ目の前で繰り返される単調なアニメーションを見つめる。一人目の村人が帰ってくる。いつも軽快に揺れている尻尾が垂れている。彼の姿は無い。二人目の村人が帰ってくる。いつもの華麗な飛び込みもなく水のなかへ。彼はまだ来ない。三人目の村人が帰ってくる。いつもの可憐さは無く沈むような飛行。彼は現れない。四人目の村人が帰ってくる。いつもとがった三角の耳が折れている。彼は……。延々と続く三拍子。どのくらい時間が経ったのだろう。窓から見える外の世界が何だか虚しい。村人たちが次々戻って来ているというのに……。日の光が消えかかってきた。途端に人の流れが終わり、急に終幕になる。あてもなく繰り返されていた単純作業は別の単純作業に移行していく。しかし、それはひどく限定的な意味を含んでいた。指は止まる。しかし、少しずつ握りしめられる。いつの間にか、ため息が聞こえなくなっていた。する余裕すらなくなっていた。寝かされていた頭は起き上がるが、身体は立ち上がらない、足腰が全く動かせない。別に重くはなかった。むしろ、軽く感じられた。異常な程軽く感じられた。まるで神経が通ってないくらい軽く、他人のもののように軽く、そこに存在しないかのように軽く。閉鎖的な立方体が煽り、高鳴る鼓動がさらに追い討ちをかける。ソフィアは堪らず外に飛び出していく。身体を無理やり動かすのはひどく疲れるのに、身体が軽いため止まることはできない。いつも慎重なソフィアを『フェイトといられない恐怖』がそうさせるのだった。主のいない部屋に杲々として輝く照明器具は、主の道を照らすには力不足だった。
 まだかろうじて明るい。しかし、ソフィアの視力と平常心を奪うには十分だった。外にいるはずなのに、部屋にいるときよりも圧迫される。馴れた道を駆けていく、生まれてから何千と通ってきた。知らない道はない。しかし、そう思っているのは本人だけだった。自分がどこにいるのかなどわかりたくないのだろう。道を少しでも間違ってしまえば、闇がソフィアを待ち受けている。彼を求めて名を呼ぶ。

「フェイト〜……、フェイト〜……」

ソフィアの声は木々に吸い込まれるように消えていく。フェイトどころか森の動物たちもいないようだ。暗闇以上の静けさが森を覆う、異様に冷たく、熱を感じられない。だんだんと歩調は落ちていき、鼓動は激しくなっていく。落ち着かないデュエット。明らかな選曲ミス。

……グゥルルルル

「!」

静寂を破る化け物の呻き声。共演者だろうか、背筋が凍るようなバリトン。それとも観客だろうか、忘れてしまいたい喝采。どちらにしても歓迎できなかった。不安が募り、演奏者は楽器を止める。木の陰から黒い生き物が這い出てくる。全身が焼け焦げ、体液が流れ出ていて、目も潰れている。直視なんてできるようなものじゃないのに、目を逸らすことができない。体の一部が削げ落ち、動きがかなり鈍重だったが、あのときの悪魔に間違いなかった。確かに死んだはずだ……。ソフィアは、フェイトが探しに行ったときから、道を間違えていた。そのときからソフィアは闇の中にいたのだ。

「キャー!」

甲高いソプラノのソロパート。曲の構成は最悪だ。なんとか声を出すことはできたが、涙も出ている、足が竦んで動けない。悪魔はゆっくりゆっくりと這って進んで来る。体のパーツが剥がれ落ちていく。動くのもやっとだ。もう生き物だとは到底思えなかった。勇気を振り絞り、後ろへ下がろとしても、足が震えて思うようにいかない。その場にへたり込む。呻き声。這いずる音。はち切れそうな鼓動。声にならない悲鳴。恐怖のカルテットがソフィアを追い詰める。もう勇気などどこかに行ってしまった。待っているのはフィナーレだけ。少しずつ終わりに近づいてくる。アンコールなんかない、これが最終公演だ。嗚咽が止まらない。もうすぐそこまで来ている。悪魔は残っていた最後の力を振り絞り、前足の鋭い爪をソフィアに振り下ろした。



 ソフィアは咄嗟に目を瞑る。目を開けていることはできなかった。迫り来る恐怖を見つめることはできず、溢れてくる感情は抑えきれない。しかし、いつまで経っても、魔手は届かない。ソフィアは恐る恐る目を開けていく。ソフィアの目の前にはフェイトがいた。闇を払う光を見いだせた。ソフィアは嬉しくてフェイトの胸に抱きついた。

「フェイト!」

瞼の裏に堪っていた涙が堰を切って流れ出す。留まることを知らない感情がフェイトの胸と背中を濡らした。




















……背中?




















ソフィアはゆっくりとフェイトを放した。フェイトはゆっくりと仰向けに倒れる。やっと見つけだした光が闇に呑まれていく。閉ざされた世界でのフェイトの血はやけに鮮烈だった。





 その後、悲鳴を聞きつけた村人たちが駆けつけ、横たわるフェイトと黙って彼を抱き締めているソフィアを発見した。村人たちは大急ぎで村の薬屋ルイド、シランドの両親に使いを出す。フェイトを担ぎ、運び込む。フェイトはベッドに寝かされ、ソフィアはベッドに項垂れている。今フェイトは危険な状態にあるらしい。出血は酷かったが、傷は見た目のわりに大したこともなく、内臓なども無事だった。しかし、悪魔の毒なのか、傷口からウイルスが入り込んだようで、今にも死にそうだった。初級紋章術では治せないため、普通の術師には治せない。シランドへ、両親とともに優秀な術師を呼びに行ったが、治せるのかわからず、間に合うかどうかも怪しい。また薬も、原料の薬草が珍しいので、切らしていたため、村人たち総出で探している。今は、時折起こる炎症の過剰反応を和らげるため、抗生物質を投与するぐらいしかなかった。



 部屋の灯りはついておらず、窓から差し込む蒼白い月の光だけが二人を照らし、部屋を取り巻く暗澹たる斑が蠢いている。光を浴びたフェイトの顔は異様にはっきりと映し出され、息遣いは周囲に広がっては暗闇に吸い込まれた。

「フェイト……」

かすかな声は、誰かに届くわけでもなく、力なく消えていく。ソフィアはどうしていいかわからず、屈み込みフェイトのベッドに伏している。光と影の境界線がはっきりせず、曖昧な世界が闇に溶け込んでいく。すぐ傍にいるのにひどく離れていて、昨日一緒に寝たのが遠い過去のようだ。闇のせいでソフィアはフェイトの顔も声もわからない。躙り寄って来るそれは世界をソフィアから奪い始める。少しずつ失われていくのをただ黙って眺めるしかなかった。
 窓から差し込む月の光は宙を舞う細かい塵に反射して、煌びやかな光の道をつくりだしていた。それはお迎えにも救いの手にも見える。

(……ア……、ソ……)
「……」
(……ィア……、ソフ……)
「?」
(……フィア……、ソフィア)
「!」

かすかだが、確かに声が聞こえてきた。女性のとても優しい声だ。ベッドから頭を上げる、声はするがまったく姿が見えない。

「だ、れ……?」
(……ウフフ。私はリリス。あなたと同じ魔族と呼ばれる者よ。どうしてもあなたのことが放っておけなくて助けに来たの……。そんなことより彼のこと、このままでいいの?)

イタズラっぽく笑うが、どこか憎めない。なんだか不思議と安心し、懐かしさまで感じてしまう。

「……わたしには、なにもでき、ない、……から……」

そう言って、うつむいてしまう。

(ホントにそう思う?あなたは一体何ができないの?)

そう言われると応えることができない。しかし、どうしようもないことのように思える。何をしていいのか全然わからないのだから。

(でも村の人たちは薬草を探しているわ。皆頑張っているのにあなただけメソメソしてる)

心を読むかのように聞いてきた。なぜか違和感がなかったことさえも当然のように思えた。

「……それは……、わたしがいても、じゃまに、……なるだけだ、から……」

なんとか顔を上げる。さっきまで無かったはずのフェイトの頭がぼんやり見える。顔は窓の外を向いていて、後頭部しか見えない。月の光が妙に痛い。それがどっちの意味でも痛かった。

(あなたは我が儘で弱いのね……。まぁ子供だから仕方ないことかもしれないけど。あなたは自分のためだけに彼が欲しいのよ。)

詰るような言い方に腹が立つ。言っている意味がよくわからない。だけど、頭が受け付けないだけで、身体の奥ではしっかりと反応していた。

(あなたはいつでも彼に甘えていたいのよ。たとえそれが彼を殺すことになっても)

頭では否定しているが、心のどこかでは認めているような……

(今動かないと、取返しのつかないことになるよ。あなたはそれでいいの?)

次第に靄が取れ始め、今までぼんやりとしていた世界が形を現してくる。しかし、はっきり見えたところで辺りは影ばかり、光なんか見つからない。また闇がソフィアを覆う。

「どうしよう……」
(だから私が力を貸して上げるわ)
「何をすれば……」
(あなたのお母さんは何をしてる人だったのかな?)
「……お医者さん」

彼女の言っていることがなんとなくわかった。それと同時に自分には無理だと。しかし、彼女はそんな自分をわかっているかのように

(何をしたってダメかもしれないけど、何もしないよりずっといいわ。何もしなければ彼は死ぬだけよ)
「う、うん……」
(あなたは子供だからできることは限られているし、大人に任せた方がいいのかもしれない。でも、今彼のためにあなたができることがある。それでもあなたはしないのかしら)
「……」
(彼は今、あなたのために闘っている。『アイツ一人で泣いてないか』って心配している。そんな彼を支えられるのはあなただけだと思うわ)
「えっ……」

そこで、そっとフェイトの顔を覗き込んだ。顔を見ただけでは当然そんなことはわからない。しかし、蒼白い光の中にいつもと変わらぬ顔があった。もちろん、元気ではないのはわかる。ただ、なぜか大好きな彼の笑顔が思い浮かぶ。いつも自分を励ましてくれた。今はじめて彼の顔を見たような気がした。

「……する。……ううん、やりたい、です。」

ソフィアはシーツをギュッと掴んだ。世界はまだ闇に包まれている。だけど今小さい勇気が産まれた。本当に小さい勇気が。あの自分を苦しめるだけだった『名もなき感情』がようやく産声をあげたのだ。子供の自分にはまだ名前をつけることができないが、今はそれで良かった。きっともっと大人になればわかると思う、そのときまで大切にすればいい。今はほんの僅かでも勇気があれば良かった。彼を救うまでとはいかないが、ここから動き出せるだけの。
 リリスの言うことはあまり理解できなかった。だが、彼を助けるためのことはすべきだと実感した。『あんな状態でも、彼ならきっと見守ってくれてる』そう思い込み、自分を奮い立たせる。なけなしの勇気を振り絞って立ち上がり、一歩また一歩と闇の中を進んでいく。どうせ今だけなのだ、泣きながらでも進んでやる。彼が目覚めたら、二度と自分にこんなことさせないよう怒鳴り付け、そして目一杯甘えればいい。残されたシーツの皺がカッコ悪くも、誇らしかった。
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