幻想★小説
□金色のサーガ
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――金色に光る薄の群生が辺り一面に広がり、頬を撫でるような優しい風が吹いていた。
微かに望む山脈は、薄く雪化粧を纏い、傘下に広がる町並みは、やがて迎えるクリスマスのオーナメントも無く、薄暗い灰色の膜に覆われていた。
男は小高い丘の一角に腰を降ろして、眼下に写る景色を眺めながら、頬を擽る薄に指を伸ばす。
白く細い指先を、女の肌をなぞるように茎に絡ませ、断末音を立ててその場から引き離した。
まるで弔いの花を差し向けるように、立ち上がった男は指に吸い付くように携えていた薄の穂を眼下へ放り込んだ。
軋む男の身に纏った甲冑が自棄に重苦しく鳴り響く。
流れる金糸の紡ぎ糸のような髪を掻き上げ、男は静かに眼を伏せた。
時は百年前。町は山脈奥深くに棲むと言われる伝説の魔物達によって壊滅の危機に晒された。
魔は女、子供を次から次へと食らい潰し、抵抗する男達は皆、葬らせられた。
残ったのは衰弱した年寄りのみだった。
その中で奇跡的な生存を為し得た赤子がいた。
稚児の名はカミュ。父も母も居らぬ孤児だ。発見された時、カミュは瓦礫の中から自力で這い出し、擦り傷ひとつおっては居なかったという。
麗しい程に金色に輝く髪と、息を呑むような深紅の瞳に町の残された老人達は畏怖してその場から逃げるように立ち去っていった。
一人置き去りにされた稚児は、タダ茫然と去っていく後ろ姿を眺めていたが、そこへ骨と皮だけになったか細い手が差し出された。
「よう頑張った。うちへ来なされ。なあ」
コクンと一つ頷き、カミュはその老婆の後をついて行くことになった。
一月、二月と時は流れ、一人の老婆に拾われたカミュは、貧困な生活をものともせずすくすくと成長していた。
町は日毎に朽ち果て、残っていた年寄り達も一人、また一人と、その微弱な魂の燈を消していった。
カミュを養う老婆とて例外ではない。
荒れ果てた大地に実るものはなく、干せあがった川に魚の泳ぐ姿などない。濁った飲み水さえ、いつ枯れるとも知らず、飲み込む唾を頼りに生き長らえていた。
「カミュ、お前は不思議な子じゃ。何も口にせずとも大きくなっていく。あの狂乱の中、ただ一人生き残った我らの希望じゃ。きっと、神様のご加護が授かっておるのじゃろうて」
そう言って老婆は、毎日自分の傍でちょこんと座っているカミュの金色の髪を撫でていた。
笑うでもなく、泣き叫ぶでもなく、カミュはいつも只黙って老婆を見つめ返していた。
深紅色の瞳で。
「カミュ、わしはもう長くは生きられまい。もう、すぐ傍まで迎えが来ておるのじゃ。なぁ、カミュ、お前は神の子じゃ。わしがおらんようになっても心配はなかろうな」
消え失せるような老婆の瞳をじっと見つめ返す。此処にきて殆ど言葉らしい言葉を吐いたことのなかったカミュがゆっくりと口を開いた。
「ばあ、のイノチ、ぼく、アズカル」
果たしてその言葉が誠かどうかはその時の老婆には分からなかった。
だが、あどけないカミュの鋭利な二つの牙を見たとき、老婆は全てを悟った。
――町を恐怖と混乱の渦に陥れた魔が降り立った頃より、更にさかのぼる事千年前。
最初の魔の来襲を受けたこの地を一人の青年が救った。
金色の髪をなびかせ、蒼白な肌に映える深紅の瞳を携えていた。華奢な肢体からは想像出来ない程、尋常ならぬ強靱さで魔を圧倒したと言われていた。
生き残った民は彼を崇め讃え、町に引き入れようと試みたが、一つの事件を切っ掛けに、英雄から逃亡者へと変わらずにいられなくなってしまう。
事件の発端は青年が民の好意によって町に足を留めるようになった頃起こり、人々はよそ者である彼を真っ先に疑ってしまったのだ。
夜毎、若い女ばかりが狙われ、発見された肢体には共通点があった。
首筋に残された二つの小さな噛み跡。
処女ばかりを狙うその事件を人々は吸血鬼の仕業と騒ぎ立て、青年の深紅の瞳が人々を震撼させる事になっていった。
人々に詰め寄られ、責め立てられた彼は、事件の真相を否定する事無く町から姿を消した。
古い古い言い伝えだと遠い昔聞いた話を老婆は思い起こしていた。
かの御人が残された落とし子やもしれん。
言い伝えの青年が吸血鬼なのかも不明であったが、老婆の衰弱した瞳に写る稚児の秘めたる力を信じてみたかった。
「こんな老いぼれでも役に立つかえ?」
骨に皮が張りついただけの指を弱々しく差し伸べ、カミュの弾力のある白い頬に触れると、一筋の枯れはてた筈の目尻から涙が零れ落ちた。
「ばあ、イキル。ぼくの、ナカで」
深紅の眼光が妖しく光り輝く。貪欲にただ開いていただけのカミュの瞳が煌めき、口端から二本の牙がググっと伸びていた。
至高の笑みを携えて老婆はカミュの中へと流れ込んでいく。
その笑みは、遠い昔に愛し合った恋人に手向けた微笑みのような、一瞬、老婆から少女へと移り変わるようにも見えた。
最後の最後まで血の一滴も残さぬよう、カミュは優しく丁寧に流れる血を啜り終わると、ゆっくりと老婆の首筋に食らい付いていた牙を抜き収める。
次第に灰となっていく亡骸を見つめるカミュの見開いたままの瞳孔が、緩やかに輝きを増していく。
一陣の風が吹き付けると、老婆の亡骸は跡形もなく姿を消していった。
「ばあ……」
更地となった簡素な寝台の上を名残惜しそうに撫でる。その様子に先程までの高揚した感じは見られず、いつものあどけない子供へと戻っていた。
――翌日、老婆の横たわっていた寝台で就寝したカミュは、酷い喉の渇きを感じて目覚めた。
食い物どころか、水の一滴も欲することのなかったカミュの突然の飢えと渇きに対する渇望は、本人の意志とはまるで別の所で起きているようで、幼いカミュは自分の変化を理解できずにその場でのたうち回り、勢い余って寝台から転がり落ちていった。
それでも尚、藻掻き、苦しみ続ける。
血走った目を極限まで見開き、その瞳孔は完全に正気の沙汰ではない。
だらしなく開いた口許からほとばしる唾液を滴らせ、伸びて疼く爪を掻き毟るように地面を挫っていた。
「あう……、あう………」
言葉に為らぬ呻き声が悲痛に助けを求めた。
地に身体を伏せるように身を縮め、必死で己の渇望と戦う最中、隙間だらけの戸口の前で足を止めた人の気配が、研ぎ澄まされたカミュの聴力に捕らえられた。
「アナ!アナスタシアさんや!話がある。出てきてくれんか?!」
声の主はカミュにも聞き覚えがあった。
確かこの町の町長だとか。
再三、老婆を尋ねてやって来ていたのを見たことがあった。
カミュは咄嗟に寝台の下に潜り込むように滑り込み、息を潜めて外の様子を伺った。