リク

□えにしを食む
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江戸パロ学者折原と囚人静雄




殺す。
絶対に殺す。お前の顔を殺す。お前の目を殺す。お前の声を殺す。指を肌を甲を体臭を髪質を黒子を骨格を、お前の全身を殺す。お前の全部を殺してやる。
とでも言っているのだろう。叫んでいるのだろう。きっと。本当ならばそんな怒声がここまで聞こえたはずだが、そこまでの力は残っていないのか、唇はただ歯が食い込み流れた血が乾くほど強く引き結ばれているのみだ。だが、衆人環視の中、杭に結ばれた縄で後ろ手に、十重に八重に縛られ膝をつかされている褐色の髪の男はその目だけで殺意を訴えていた。
囚人のような扱いを受けているというか実際囚人であるその男は、つい一週間前まで日本橋で櫛屋を営んでいた民間人だ。商家に生まれ若いころ親を亡くし、その身一つで六代続く店を切り盛りしていたほかは、特に波乱もなく淡々と京から仕入れた品を店に並べる穏やかな日々。そろそろ結婚相手を親戚から紹介されるという年齢だった。殺人の罪でしょっ引かれたりしなければ若く才気に溢れた新妻を迎え入れ数年後も同じように町人や女達へ飾り櫛を売っていたはずだが、人生というものはどうもうまくいかないようである。七人もの人間を手にかけた男に申し開きをする権利などあろうはずもなく、無罪を訴え続けた男には空しく、身柄を捕らえられてから二日の後、死刑判決が出された。
さあそこで自分が登場するのである。あんなに残虐な手口で老若男女を殺害した男の処刑法が、ただが打ち首や縛り首などでよいのですかと奉行所に訴え出たのだ。阿蘭陀に渡り三年間勉学に励んだ細菌学者の私があちらで発見した菌を使いませんか。と。
「野郎に殺された人間の中には、私の友人もおりました。市中引き回しのうえ晒し首、こんなもんではとても腹の虫が収まりません。手前勝手な私情とはァ存じますが、どうぞ、聞く耳お持ちください」そう涙ながらに口上を述べると、お前のような人間が何人も朝からひっきりなしに訪れ、櫛屋の極刑をと大声で叫んでいったよと辟易したように役人たちは言った。もともとは実家の薬卸問屋の跡を継ぐべく始めた薬の勉強が楽しくてのめりこんだ道だが、今では弟に跡目を譲りこちらを本業としていると、身分を証明してみせたことも信頼に一役買ったのだろう、数年顔を見せていない生家は幕府の高官も贔屓にする老舗だ。
異国の人間に研究協力を申し出る時かかった半分の労力もせずに、自分の要望は通った。
自分がここに現れてから、距離はあるのにまっすぐにこちらを射抜く受刑者の視線は、砂糖と混ぜた菌を飲ませた数日前と何も変わっては居なかった。

「どうせ詳しく話しても学のない奴ぁわかっちゃいめえ。簡単に言やぁ阿蘭陀の植物から採取した花粉を元に生成した菌だ。牛にした薬物実験によりゃあ、数日の潜伏期間を経て発症する、と丸一日さんざん苦しみ抜いて確実に死に至る。なのに感染者と一寸の距離でもうつらねえ、経口でしか感染しねえ実に処刑に向いた代物さ。さあさ、もの共よってらっしゃい。死ぬまで野郎を晒してやろうぜ」

腹から声を出し刑場全体に通るように演説すると、取り囲んだ衆人からどっと笑い声が起こった。しかし、男へ石を投げるものはいても、拳で殴りつけるものはいない。男の店で買った櫛を女達はへし折り、受刑者から見える場で、焚き火と一緒に燃やした。だがこれも十分距離をとったところのことで、男が屋根もない空き地に放置され、三日三晩が経過した今も、誰も近づく者はいなかった。
男はもちろん食事も、どころか水さえ与えられていないのだ、睡眠さえ頭痛腹痛や嘔吐が叩き起こす。病原体に蝕まれてもしている上のそれにより衰弱は必至であり、寧ろまだ息があることのほうが、そしていまだ光の残った目を向けてくることが奇跡的なほどだった。やつれた面はその眼力に拍車をかけ、自分の後ろに控えている奉行所の人間などはヒイ目があったと情けなく息を呑んだ。男は自分たちから半径二十間ほども距離がある荒地でただ膝をつくだけしか出来ない死にかけだ。何を怖がることがあるのだろうかと不思議な気持ちになるが、身分的には上にあたる相手だ、口に出しては言えなかった。
「うつることはありやせん、なんなら野郎に恨みを持つ人間全員に殴る蹴るさせてもいいくらいだって進言したのに、如何して放置なんでしょうねえ…」
替わりにそんなことを独り言めかして呟いてみると、「牛の実験結果がそのまんま人にも当てはまると確信できるもんかい」、そんな臆病な反論が背後からした。この奉行、名を奈倉守とか言ったか。随分と身分に似合わぬ小心者らしい。呆れを封じたため息を吐く。
「信じられませんかね。なら、俺自らが行って見せましょ」
新たな処刑方法だ、ただでさえ伝染病が数年前に猛威を振るった江戸の地において、奉行や町人たちのこの反応は仕方ないのかもしれない。だが、自分の腕が認められないと言外に伝えられているようで心外だった。受刑者から二十間とって張り巡らされた柵をひょいと越え、たった一人、取り残された男に向かって歩む。処刑の観客たちから注目を浴びていることを感じながら、一歩一歩進む。男の目もずっと一定に、自分にだけ向かっていた。烈火の瞳は近づくごとに更に苛烈さを増してくる。

「よお」

ひょっとするとこの男に気おされない人間はこの世で自分ひとりかもしれない。心の中で、そっと確信を燃やす。
ひび割れた唇の、皺一つ一つまで見える距離まで――自分の影が相手の体をすっぽり覆う距離まで寄って、受刑者へと声をかける。

「お前さんとはきっと、前世からの縁でもあるんじゃないのかねぇ。…昔から、お前さんの存在全部が、俺に殺してくれと鳴いてるんでえ」

二十間離れた小声でのこの言葉を、聞くものはきっと自分と男以外いないだろう。つい笑みを乗せた唇は、歓喜を表している。
自分はこの男が罪を犯す前から、その存在を知っていた。
自分はこの男に、罪を擦り付ける前から存在を知っていた。

「昔っから、本当に、いつかお前さんを殺してやりたかった。お前さんを殺すために、難儀したよ。一体どれがお前さんを殺すに値する薬だろうか、と図鑑片手にさんざんっぱら頭を悩ませたもんだ。なばらいっそと海を渡ってよかったよ、俺が自分で見つけ自分で生成した菌で、お前さんを殺す。その憎悪に照った目で見えるかい、お前さんを助ける人間なんて一人も居やしないよ。お前さんに近づくことさえ、誰もしないんだからね。正義は俺にある。ああなんて、幸せだろうねえ。ずっとずっとこのときを、待ってたんだ」

出会ったのは数もろくに数えられない幼少の頃。褐色の髪は江戸には珍しく、日に光り金に透けたあの色は今でも覚えている。商人の子は意外と上等の召し物を着て、彼の店の番頭とともに、こちらの実家の門を叩いてきた。これこれこういう症状が出て父と母が大変苦しがっており、というたどたどしく拙い言葉で一生懸命説明する幼い彼と、彼を宥めて大人の言葉に翻訳する番頭の声が、障子戸の向こうからもれ聞こえていた。
だが最終的に男の親を殺したのは、病気ではなくそれから命を救うはずの薬だった。自分の父が彼の両親の症状を見誤り、処方した薬の副作用が祟って翌日二人とも息を引き取ったという。思えば彼の両親はその後江戸全域に広がった疫病の、初期の患者だったのだろう。未知の病だったことに気づかず乞われるままに薬を売って死に至らせた老舗の薬屋の事件はよみうりにもなったが、すぐに金に物を言わせて噂を消した。それでも広がった醜聞は、父の妹が疫病の治療法を死に物狂いで探って結果を出したことにより完全に消えた。
十年後、再び褐色の髪を見たとき――成長した男の、彼の顔を見たとき、殺される、と思った。こちらの両親は存命だったが、何故か彼が見ているのは仇である薬問屋の主ではなく、その息子の――自分のほうであった。
けれど彼が自分へと差し出したのは短刀ではなく櫛だった。両親は残念なことになったが、そちらの当主は当時、足りなかった薬代を幾分かまけてくれた。その借りを、利子をつけてこの櫛で返せればと思い、持参した。きっとそちらの当主は受け取ってはくれないだろうから、息子であるあなたへ渡すことが出来ればと考えたのだと、愛想が必須の商人にしてみたら多少ぶっきらぼうな口調だったが、殺意は彼のどこにも見当たらなかった。
商人同士、それも負い目がある相手に、こちらから無碍に出来ようはずもなかった。
おぞましいほど急速に芽生え花開いた友情に、ようやっと終止符を打てる。穏やかな気持ちで、現在の彼、受刑者の男の顔を眺める。

「死んどくれ。個体差はあれどどの実験台の牛よりもお前さんはもっているよ。最長記録だ。お前さんが規格外なのか、牛と人間の差かはわからないけれどね。でもそれも、きっと数刻のことだ。もう間もなく、菌は潜伏期間を終え発症するだろう。お前さんの体を苛んで、死にいたるよ。さァ、死んでくれ。死んでくれ。ずっとそう、あの再会を果たした時からずっと、俺は、お前さんに念を送っていたのさ。親友のお前さんの死を、新年一番に天へと願ってたのさ」

歯が鳴る音がしたと思ったら途端、くぐもった呻きが男の喉からした。激しく咳き込み、背を折る。額を地面にこすりつけ、激しい肩の上下運動をこらえようと、無様に伏す。
褐色の髪は砂や風雨に乱され、汚されていた。
息をするのが苦しくい癖に上層では穏やかで、根底では泥濘とした、愛しかった、男と過ごした過去。これからは、酒を片手に思い出しても笑うくらいは出来るかもしれない。

「感染症の発作か。辛かろう。親友のお前を、このようにしてすまないとは思ってるよ。すまないねえ。でも、さっさと死ね」

震える肩に手をかけ、慰撫するように、愛撫するように、撫でてやった、苦しむ様をもっと間近で見てやろうと腰を曲げ顔を近づけた、その時だった。

「ぐぅっ!?」

褪せた褐色が閃き、死を待つのみの人間とは思えないほどに機敏な動きで、男の唇が、笑みで緩んでいたこちらの舌を食んだ。
唾液が伝わった。頭で事態を理解した瞬間、ぐらりと視界がゆがんだ。
衆人からどよめきが走った。自分が一番、よくわかっている。
経口感染。
口を拭い唾を吐く。ああ、自分が一番わかっている。応急処置にもならない。

「つれないじゃねえか親友だろうよ、なあおい。…お前も一緒に死んでくれや、リンヤ」

声。
飢えに、渇きに、疲労に掠れ、割れた、けれど懐かしい男の声が、確かにした。
セイタ。
櫛屋の、静太。

「こ」

殺す。

「リンヤ。薬卸問屋の倫也。感染したのはいくらか遅いとはいえ、お前が、俺よりも永く生きれるもんかよ。きっと、お前は俺と、まばたきの差もたがわず、おっちぬさ」
「ゆるさねえ――絶対に殺す! 前世じゃねえ、来世だ。お前の顔を殺す。お前の目を殺す。お前の声を殺す。指を肌を甲を体臭を髪質を黒子を骨格を、お前の全身を殺す。お前の全部を殺してやる。その魂、絶対ェ忘れやしねえ!」

俺もだ。褐色の髪の男が繽紛たる眼をしてそう呟いたとき、とうとう体が揺れた。

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