大人向け長編
□囚われ
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退屈は人の心を荒ませる。だから刺激を求めてここまで来たというのに、ふと周りを見渡してみれば全てが色あせていた。
いや、橘涼司(たちばなりょうじ)をとりまく世界に、始めから色などなかった。橘がそれを虚しく感じるようになったのも、ここ1、2年の事だ。
過去も現在も未来も、ほとんど色味のないその中でただ1つ、鮮やかな色彩を放つあの日々。視界が紅に染まり、全てが崩れ去ったあの日。
「潮時か……?」
橘が煙草の煙と共に吐き出した言葉を聞きつけ、直属の部下である吉木雪弥(よしきゆきや)が近づいてくる。スーツ姿ではあるが、まとう雰囲気が堅気ではない事を如実に示している。それは橘にしても同じ事だが。
「確かに潮時かも知んないすね、この店も。どーします?」
2人の目の前には、けばけばしいネオンが目に痛い店。橘と吉木が所属する組の、所有権のギリギリのところに存在している店だ。上がってくる金は微々たるものだが、何かあれば、多少の面倒事が降りかかる程度の。
橘と吉木は組から、そういう厄介事を引き起こしそうな輩の引き締めや、何かあった時の後処理を任されている。組織の末端、いわゆる掃除屋だ。
「いつも通りだ。利用価値のないものは切り捨てる」
「へーい、行きますかー」
橘の即答を見透かしていたかのように、躊躇なく歩き出す吉木。スタスタと前を歩くこの男は、一応橘の片腕という事になっているが、飄々としていて掴みどころがなく、けして本心を見せようとしない。
わざと隙を作って寝首をかかせようともしてみた橘だが、目下のところ、吉木は橘の命には興味がないらしい。頭は切れるし身体能力も高い、その上見栄えもいいので傍に置いている。
こいつには世界はどう見えているのか……どうでもいい事だな。橘はコンクリートに落とした吸殻を、物憂い気分もろとも踏み消した。
「こ、これは橘様。ようこそいらっしゃいました」
中に入ると、店のオーナーらしき小太りの男が近寄ってきて橘にうやうやしく頭を下げた。橘たちが来るという情報が、事前に回っていたらしい。それで仕事に支障が出る訳もないが。
「アイサツはいいからさー、売り上げは?」
橘よりも先に足を踏み入れたのにもかかわらず、無視される形になった吉木が口角を上げてオーナーに尋ねる。橘の方が年長者で上司ではあるが、2人の役割において明確な上下関係があるわけではない。そこを履き違えてないがしろにし、吉木の機嫌を損ねる店が後を絶たないのはなぜなのか。
「は、はい、少々お待ちを」
多少の問題が生じていても、売り上げが伸びれば目をつぶるのが組の方針だ。その金額次第では、目をかけ援助する事もある。もっとも、そんな事は滅多にないが。そんな力がある店に、橘たちが関わり合いになる事は少ない。
この店も大多数の1つだ。どうせたいした儲けが出ていないのだろう、焦る様子のオーナーに下っ端が小走りで近づく。
「すみませんオーナー、例の奴がちょっと、」
「何だ、まだ暴れてるのか。薬でも嗅がせて静かにさせろ」
「それが効かねぇみたいで」
「何? トラブル?」
尋ねる吉木の声が嬉しそうな響きを持っているのはいつもの事、手間を増やすなと制止する気分でもない。この程度の店で起こるトラブルなどたかが知れているし、適度な刺激は憂さ晴らしに丁度いい。
要するにこいつも橘と同じ部類の、人生を持てあました輩なのだろう。知ろうとせずとも、共に行動していれば自然とそういう事は伝わってくる。
「いえいえ、少しだけ立てこんでいるだけです。お気になさらず」
「手こずってるなら俺が対処してあげるよ?」
「あ、いや、貴方がたの手を煩わせる程の事では……」
ここで橘たちを使えば更に金を流さねばならないから、オーナーも必死だ。橘たちにしても、金のないところから無意味に搾り取る気はない。それは他の人間の仕事だ。橘の仕事はあくまで、搾り取れる見込みのない店の始末のみ。よって普段なら引く所だが、
「案内しろ」
「え……は、はい……こちらです」
橘の鶴の一声で、オーナーがしぶしぶといった風に案内を始めた。吉木が軽い足どりで後をついて行く。
橘も続こうとして、自分の歩みがわずかに重い事に気づいた。何をしようと、何が起ころうと、橘は変わらずあの時から逃れられない。そんな自分が生きて外界と接し続ける事に、何の意味があるのか。
トラブルとやらに特別に興味をひかれた訳でも、店を潰す為の態のいい理由にしようと思った訳でもない、ただ退屈だっただけだ。橘はそう自分に言い聞かせ、後はいつも通り無心で歩を進めた。