ノーマル長編

□パラディッソ
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パラディッソ

 見慣れた風景の中を遠ざかっていく、大きな背中。スッと伸びた背筋はいつも通りで、足取りにも迷いが見られない。ただ、いつも身につけているはずの、俺とお揃いのエプロンをなぜか着ていない。眠る時以外は身につけていなければならないと、俺に教えたのは彼なのに。
 どこに行くの、俺も連れてって。後を追いかけたいけれど、身体が動かない。

「……って、……ま……て、」

 必死で呼びかける俺の声が届いているはずなのに、振り向いてはくれない。歩調は急かされているようには見えないのに、距離がどんどん離れていく。これきりなんて嫌だ。せめて最後に話がしたかった。俺はまだ、あなたに何も――

「……待って、じーちゃん!!」

 渾身の力を振り絞ってじーちゃんの背中に手を伸ばそうとして……、目が覚めた。薄闇の中、そこに浮かびあがる白い天井と、中途半端に上に伸ばされた俺の腕。辺りは耳鳴りがするほどの静けさに包まれている。
 さっきまでの緊迫感との折り合いがつかず、挙げたままの腕のしびれを感じながら瞬きをして。何度か繰り返してようやく、自分がベッドに横たわっているという事実に行きついた。

「……夢か」

 ひとりごちて腕を下ろしたら、パタンという音が間抜けに辺りに響いた。まるで現実を上手く受け入れられない俺を嘲笑うかのような音だ。その音で完全に覚醒したのに、それでも頭から離れようとしない、小さくなっていくじーちゃんの後ろ姿。

 俺を育ててくれたじーちゃんが突然居なくなって、そろそろ2ヶ月経つ。実際には後ろ姿なんて見なかった。平穏な1日が終わり、寝て、起きたらどこにもじーちゃんの姿がなくて。
 とてもあの人らしい去り方だったと思う。忘れた頃にひょこっと帰ってきそうなほどの、でも完全な消失。

 以来時々、今日のような夢を見る。迷惑な話だ。夢の中での俺は幼くて、毎回じーちゃんの背中にとりすがろうとする。そんなところも、正気を取り戻した後では癪にさわる。
 もし俺の声に答えてじーちゃんが振り返ったら、ぶん殴ってやろうと決めている。が、今のところじーちゃんは一度も振り返ってくれない。ため息を吐きながら頬に手を当てると、濡れていた。

「ったく」

 悪態をかけ声にして起き上がる。ベッドの温もりは恋しいけれど、今寝たらさっきの夢の続きを見そうだ。そう思ってはたと気づく。

「それって、今の生活じゃん」

 じーちゃんが居なくなっても、現実は続いている。じーちゃんが担っていた役割は、当たり前のように俺が引き継いで。つまり、二度寝で見るかもしれないさっきの夢の続きは、これから起きだして直面する現実と同じような内容になるのだろう。

 今の生活は見たくもない悪夢の続き? 俺は今目覚めたつもりなのに、まだ夢を見続けているのと変わらないのか?
 そう考えたら無性におかしくなった。だったら……生きているつもりなのに実は死んでる、なんて事だってありえる。そんな空想を笑い飛ばせないほどに、俺の存在は曖昧だ。

 しかし存在は曖昧でも役割ははっきりとしていて、朝から晩までやるべき事は多い。物憂い思考を押しやって、ベッドから抜け出た。カーテンを開くと眩しい光が部屋全体に降り注ぎ、夜の気配を消し去った。
 目をつぶって深呼吸。気持ちを切り替える。

「さて、」

 何はともあれ、また新しい1日が始まったのだ。鏡の前へ移動し、身支度をする。と言っても寝間着から着替えてエプロンをつけ、寝癖を手ぐしで直す程度で済むけれど。
 件のエプロンは白地に赤の水玉模様で、俺の好みとはかけ離れたド派手な代物だが、これしかないので仕方なく使っている。じーちゃんいわく、

「だって、ピエロと言ったらこの柄だろう?」

 だそうだ。確かに、このエプロンはここでの俺の役目を如実に表している。すなわち、エプロン自体は子供を守り育てる保育士の役割を、その柄は子供の心を解きほぐし楽しませる道化師の役割を。
 ここはある共通の事情で集まった子供たちのための楽園で、じーちゃんから役割を引き継いだ俺は、その管理人をしている。
 
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