ノーマル長編

□Driving!
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 人には得手、不得手がある。それは自然の摂理、アブラカタブラ、開けゴマ。全てにおいて完璧なんて気持ち悪いだけ。苦手克服を否定している訳ではない。だけど、どうしても乗り越えられない壁ってあるでしょう?



 ブレーキを踏み、速度を落としてゆっくりと狭い道を走る。真ん中より左寄り。よし。教官に教えられた目印で一時停止。よしよし。

「よっ」

 ぐるぐる。両腕を使ってハンドルを右に回す。
 初回の教習の頃からずっと正しい回し方を教えられているけれど、いまだにどういう腕の動かし方が正解なのかよく分からない。しかし今さら質問なんて出来ないから、教官の目と自分の気持ちをごまかしながら回す。

 少しアクセルを踏む。キィィィ、キュイィィィ。車体がゆっくり方向を変えていく。

「ほっ」

 ぐるぐるぐる。両腕をせわしなく動かし、汗によって滑りやすくなった手でハンドルを右いっぱいに切る。キィイィィィキュキュー。頭の中の運転注意事項も一緒にグルグルと回転する。

「あれ?」

 キキィイイ!! ドゴ、ガリ、ガッ、クン。

「……あ」

 危険を察知してブレーキを踏むも間に合わず、車体が縁石に乗り上げ、コースを囲っている鉄柱にぶつかって止まる。
 これは……3センチ凹み、塗料ちょいハゲ、だ。経験とは恐ろしいもので、惨状を見ずともぶつかった音と衝撃だけで被害の程度が分かるようになった。などと冷静に考えている場合ではなく。

「こらぁ!!」
「ひっ」

 隣に座っている太め中年教官が、今にも血管が切れるのではないかと心配になるくらいに怒鳴る。冗談みたいに全身が亀のように縮こまった。

「志賀さん、あんた何回ぶつけたら気が済むの!?」
「す、すいませ」
「すいませんじゃない! もう降りて! 君の運転なんて、命いくつあっても足りないよ!」

 あぁ、血管が、血管が。教官の脳内で虐げられ、限界まで張り詰めた血管が、花火のように血を噴く様を想像してさらに体が縮こまる。

 一刻も早くこの場から逃れるに限ると判断しドアに手をかけて、まだ最重要課題が達成されていない事に気づいた。しかしこの状況下ではものすごく尋ねづらい。
 尋ねづらいが、尋ねなければなるまいと覚悟を決め、おそるおそる、肩で息をしている教官に話しかけた。

「あの」
「何!?」
「ハンコは?」

 これ以上刺激しないよう、声の大きさと声色を注意深く調節したつもりだったが、それなのにと言うべきか、案の定と言うべきか、この質問はブタに、ではなく火に油を注いでしまったらしい。
 いつまでたってもトイレの場所が覚えられない犬が、ご褒美をねだった事を叱りつけるがごとく。失望の果てに見下したような視線をこちらに向けた教官は、今日一番の勢いで私に唾を吐きかける。

「押す訳ないでしょ!? さっさと降りてよ!!」
「は、はいっ」

 なす術なく、すごすごと運転席のドアを開け、外に出る。

「フン!!」

 かなりご立腹な教官はドアを乱暴に閉め、すごいスピードを出して教習車を駐車しに行ってしまった。使い古されたタイヤが軋む、嫌な音が耳に残る。制限速度を守る気はないらしい。
 何でああいうオヤジって怒るとカマっぽくなるんだろう。本性が出ちゃうのだろうか。

「はー……」

 またやってしまった。教習内容がS字とクランクになってから、全くハンコがもらえない。ハンコをもらえないと次の内容に進めない。進めないといつまで経っても免許が取れず、教習に怒られる日々が終わらない。そう考えて焦れば焦るほど、もともと下手なものがさらに下手になっていく。何という明快な負の連鎖。
 楕円のコースをただぐるぐる走っているだけの時はたっぷり文句を言われつつも押してもらえたのに。いやその時点で押してもらえない人って何なんだ。バックでしか運転できませ〜んとか? そっちの方が上手くない?

「くくく……はっくしょんっっ」

 くしゃみをした事で現実に引き戻された。教習車が行き交う道端で1人、いきなり笑いだした女。急に恥ずかしさが込み上がってきて、足早にその場を後にする。
 11月も後半に入って、外はもう、ぼうっと突っ立っていられるような気温ではない。吐いた息がぼんやりと存在を主張して、消えていく。

 待合室で美咲が待っているだろうから、温かいココアでも買って一緒に飲もう。

「何でこんな事になっちゃったんだろ?」
 
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