過去拍手

□その9
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『花より団子より』

「桜の木の下には、死体が埋まっている」

 こんなにぎやかな宴の最中に、何言ってんのこの人。私はコップ酒をあおりながら、隣にいる人間の思考を訝しんだ。文系である私はもちろん、それが有名な文章である事を知っている。だからその内容ではなく、どうしてそれを今この状況で、華やかな花見の会で口にするのか、という事に対してだ。
 まぁ元から、この人は私の理解範囲外だ。月曜日から金曜日まで、朝から夕方まで顔を突き合わせる関係であっても、この人を理解できる日が来る気がしない。

「……桜の木の下には!」
「はいはい先輩、もう1杯いかがですかー」

 私の無反応に、彼が声を張り上げる。それを強引にさえぎり、彼が握りしめている紙コップにビールを注いだ。宴会の隅っこでくだを巻く上司とその介抱を押しつけられた部下になんて、誰も注目していないけれど。それでも死体とか口走っちゃダメだろう。
 私たちの周りには、お酒だけは十二分にある。これで黙らせろ、といういろんな意味で涙が出る周囲の心配りだ。上司はぐいっとビールを一気にあおり、深いため息を吐いた。ゲップをしないだけましだとは思う。そうでなければ、いくら上司でもほっぽって逃げ出す。

「桜の、」

 まだ言うか。思わずジロリと上司の顔を睨みつければ、やけに冷静な瞳で見つめ返された。不自然にならないように視線を外す。始末の悪い事に、この人は酔ってもいっさい顔に出ない。外見は非の打ちどころがない。仕事もできて、その点では上司の覚えもいい。そんな彼の、女子社員の間でのあだ名は『ザンネン様』だ。
 まず部下に対してドS。自分にも周りにもシビアなため、自然部下がそのあおりをくう。私が下につくまでは、彼のせいで頻繁に人事異動があったらしい。別に自分が有能であると自慢しているわけじゃない。彼にはいつも叱咤されてばかりだ。そのおかげで、心臓に剛毛がモッサリと生えでもしたのだろう。

「……酒」
「はいはい」

 紙コップを突き出され、言われるままなみなみと注ぎ足した。私たちは長年連れ添った昭和の夫婦か何かか。こういう場でのこの態度も、『ザンネン様』の由縁だ。一緒に酒を飲む相手として、これほどつまらない人はいないだろう。
 加えてさきほどのような発言がいつ飛び出すとも限らない。空気が読めないわけではないはずなのに、アルコールが入ると理性が機能停止するらしい。

「ほんとザンネン」
「何か言ったか」
「いーえー」

 私だって、最初からこんな舐めくさった態度で接していたわけじゃない。仕事中は頼りになる有能な上司だし。でも飲み会のたびに訳のわからない絡み方をされれば、こうもなるだろう。最初に軽く受け流してしまった時には、さすがにしまったと思ったけど。彼はぱちくりと瞬きをしたのみで、別に何も言ってこなかった。いつもの説教を覚悟していた私は、拍子抜けしつつも味を占めた。
 仕事の時は相変わらず鬼だ。でも飲み会では、いつの間にか隣同士が定位置になりつつある。まぁ、周りもこれ幸いと押しつけてくるんだけども。

「……何だかなー」

 彼の隣が、居心地がいいと思い始めている。いろいろ末期である自覚はある。
 
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