過去拍手

□その7
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『大上君と月子さん』

「雲隠月子(くもがくれつきこ)、ですか?」

 大上規律(おおかみちかのり)は黒縁のメガネを押し上げ、職員室に自分を呼びだした人物を冷たく見下ろした。所属する風紀委員の担当教師は、椅子に座ったまま大人の貫録で大上の視線を受け流す。どうしていつも、貴方は。大上は苛立つ気持ちを、軽く息を吐いてやり過ごした。

「えぇ、君のクラスの万年不登校児です」
「何というひねりのないネーミング」
「は?」
「いいえ。それで、僕にどうしろと?」

 顧問云々は別にして、この教師に大上は逆らえないのだ。それならば出来るだけ早く会話を済ませてしまいたい。その唇から他の人間の名が出ただけで、嫉妬で狂いそうになる。

「様子を見に行ってあげてください。クラスメイトには心を開いてくれるかもしれません」
「……貴方はすでに訪問しているんですか」
「えぇ。このまま不登校を続けさせるのには惜しい子です」

 貴方が人を褒めるなんて、明日は槍でも降りますかね。大上は内心で笑みを吐く。それとも……その身体を今すぐ喰らいつくしてしまおうか。大上以外を映す瞳も、大上以外のために動く唇も、大上以外の事を考えている脳みそも、全て。

「わかりました」
「期待していますよ、大上君」

 卒業するまでは、告げないつもりだ。受け入れられないと分かっていて挑みかかる事が出来るほど、生半可な気持ちではない。じわじわと追い詰めて、いつの日か。
 大上は軽く頭を下げ、職員室を後にした。その背中を見送る教師の熱い視線を知らないままに。それにしても雲隠……どんな人物なのだろう。あの教師が認めるような女とは、いったい。

「邪魔だな」

 渡されたメモの几帳面な文字を愛おしげになぞると、大上は顔を上げて早足で歩きだした。愛しい人から言い渡された任務を遂行するために。
 女だと思っていた月子は実は男であり、これから待ちうけているグチャドロ愛憎劇を、大上は知る由もないのだった……!



「――という感じだったんでしょうか?」

 小首をかしげて尋ねてくる月子を、大上は哀れみの念を込めて見下ろした。現時刻は夕方の5時、ジャージ姿で寝具にくるまっているこの女は、いつからこの状態なのだろうか、と。大上が部屋にやってくるまでぐっすり眠っていたらしい月子が、目を開けて大上の顔を見た開口一番の話題がこれだった。

「……月子という名前の男はいないと思いますが。実際に雲隠さんは女性ですし」
「うーん、実は他の読み方だったというのはどうでしょう。つくねとか」

 どうしてよりによってつくねなんだ。脳裏に焼き鳥の定番メニューがよぎり、大上は咳払いした。そもそも、なぜ男である必要がある? しかしそこに突っ込んでしまったら彼女のペースに飲み込まれてしまう。
 大上が風紀委員で、月子が不登校児である事は事実。数週間前に、住所のメモどころか独り暮らしの月子の部屋の合鍵まで渡され、教師に泣きつかれたのも事実。しかし。

「風紀担当の先生は僕の恋愛対象ではありません」
「どうしてですか」
「既に結婚していらっしゃいます」
「略奪愛……私だけでも応援しましょう」

 どうしてそこで目を輝かせる。大上はメガネを押し上げ、右のこめかみを押さえながら言葉を続けた。

「僕の倍はありそうなふくよかな、」
「人は見た目ではありませんよ。抱き心地がいいという事でしょう」
「女性です」
「……残念です」

 いや、なぜそこで諦める。しかしその理由は、部屋の中を眺めれば歴然だ。
 
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