過去拍手

□その6
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『雨の効能』

 しとしとと降り続ける雨を、昇降口に立って見上げる。これからこの湿った空気の中を、駅まで歩かねばならない。いつも通りの道を通って。
 雨なんて嫌い。大嫌い。梅雨時に尋ねれば、半分くらいの人はそう口にするかもしれないけれど。今の私ほど、雨に対して恨みを持っている人間はいないんじゃなかろうか。

 湿気によってまとまらない髪の毛、べたつく肌。精神的にも憂鬱になってくるし、身体もだるい。誰しもこの時期には同じような感想を抱くはず。でも、それだけならまだ。
 せめて道順を変えればいいのかもしれない。あの道を通る時は、晴れた日でも早足になる。でも、持ち前のプライドがそれを許さない。まるで現実から逃げているみたいだから。

 すべては終わった事だ。あの日、雨が降っていなければ。そんな風に考える事すらむなしい。

「あ、」

 私の鬱屈した思考は、背後から聞こえてきた男の声によってさえぎられた。声を発してから、それを過ちだと気づいたようで。しかし立ち去らずに私の出方をうかがっている気配がする。あの日以前、何度冷たくあしらっても、あの日以後、無視し続けても。私の姿を見かけたら声をかける、それが彼のくせになっているらしい。
 聞きなれてしまったその低めの柔らかな声に、何も感じないと言ったら嘘になる。絶対に悟らせてはいけない、私の想い。しかしいい加減、無視し続けるのにも疲れた。軽く息を吐いて振り返る。

「何?」
「あ、いや、……元気?」

 私の反応を半ばあきらめていたのか、焦ったように首に手をやり、軽く笑みを浮かべて見せる彼。2週間ほど前に、私にとってただのクラスメイトに戻った人。そういうと何だか誤解を生みそうだけれど。元カレなんて甘酸っぱいシロモノではなく、ただのクラスメイト兼ストーカーだった人。
 いや、今でもよく視線を感じるから、結局彼自身は何も変わってはいないのか。変わったのは、変えられたのは私の方だ。

「私の体調を知って何になるの?」
「……やっぱ、冷てーなぁ」

 表情を変えずに言葉を返す私に、彼は苦笑する。分かっているなら、声をかける前に思いとどまればいい。私から彼に近づく事はないのだから、彼さえ気をつければ、お互いに不快な思いをしなくて済む。
 人の気持ちは流動する。しばらく顔を見なければ、もう少し落ちついて彼に対処できるようになるはずなのに。どうして彼は、私に声をかけ続けるのか。

「なぁ、俺何かした?」

 苦笑したまま続けられた言葉に、刺さったままの棘がうずきだす。普段は気にしないでいられるのに、雨が降っていて、彼と対面しているこの状況ではさすがに自覚してしまう。
 どんなに何も感じていないそぶりを見せていても、逃げずに立ち向かおうとも。失恋の痛みというものは、自力では癒えてくれないものらしい。



 彼に初めて声をかけられたのは、クラス替えの直後。正直、驚いた。彼はクラスの中心にいるタイプだから。目立たないその他大勢の私に声をかけるなんて、どういう風の吹き回しだろうと不審に思って。
 けれど本人に「どうして」とは聞けなかった。どう考えたって、気まぐれ以外の何ものでもない。だから不快にさせない程度に簡潔に対応して、彼との会話はその場限りになるはずだった、のに。

「ごめん、迷惑?」
「え……」

 さすがに、初めて会話した人をつき離せるほど冷酷じゃない。少し情けない顔をされて、冷たくしきれなかったのが運のツキ。それからはほぼ休み時間ごとにちょっかいをかけられて。彼の周りの人間は止めるそぶりも見せずに、むしろ2人きりになれるようにいらない配慮をしてくれるくらいで。
 気づけばクラス全体が、彼の行動を生温かく見守る雰囲気に包まれていた。私の意志なんてお構いなしに。

「迷惑なんだけど」
「えー、今さら? つか、2人でメシ食いながら言うか、普通?」
「別に一緒に食べてるつもりはないし」

 午前の授業が終わると、彼はいそいそと私の前の席に座って。私の机に食べ物を広げて、きちんと手を合わせてから食事を始めるのが常で。
 遠慮をやめた私に、言葉を投げかけてははたき落とされる事すら、彼は楽しんでいるようだった。そんな様子に苛立つと同時に、少しずつ彼の存在を受け入れていく自分を感じるようになって。

 気をつけていたはずなのに、いつから彼のペースに飲まれてしまったのだろう。振り返って自分の浮かれ具合を恥じたって、今さら仕方のない事だけれど。私は期待し始めていた。周りが言うように、これは『付き合っている』状態なんじゃないかって。
 でもやはり、全ては彼の気まぐれだったのだ。
 
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