大人向け長編

□流れ流され行き着く先は、
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 彼に呼び出されていたけれど、残業を請け負った。そんな私に彼は眉をひそめて。けれど結局何も言わなかった。当然だ、私たちはオフィスでほとんど私語を交わさないのだから。彼が私のことに口を出せば、周りの目には不自然に映るだろう。
 人目を盾に逃げるだなんて、子供じみた真似をしている自覚はある。けれど発作的に、今夜は肌を合わせたくないと思ってしまった。

 認めざるを得ない、私は彼との関係に疲れてきている。けれどいまさらどうやって離れればいいのか。彼の裏切りを知ったあのときですら、伸ばされた腕を拒めなかったのに。
 ピーッ、ピピーッ、出口のない思考を断ち切るかのように、静まり返ったオフィス内に耳障りな音が響く。慌てて手元を見れば、小さな画面にエラーと表示されていて。そう易々とは壊れないはずのコピー機が、何でこんなときにかぎって壊れるのだろう。ため息をつきながらボタンを押して止めようとするけれど、不快な音量は増すばかり。

「うるさいんだけど」
「すみません、ちょっとコピー機が……」

 ほかのフロアには私以外にも残っている人がいたらしい。人に声をかけるには失礼な言葉だとは思ったけれど、こちらが悪いから謝りつつ視線を向ければ。

「あ、」

 私の顔を見たその男の人が声を上げた。偶然か必然か、その整った甘い顔には私も覚えがあって。
 わが社の歩くセックスマシーン。そんなあだ名を歯牙にもかけずに、日々ナンパに明け暮れる男。名前はたしか……丹羽(にわ)さん。噂にたがわぬ恵まれた外見だ。美河さんが落ち着いた大人の色気だとしたら、丹羽さんは若い獣のようなフェロモンが出ている気がする。

 しかし私は彼に声をかけられたことなんてないし、仕事での接点もないはず。それなのにどうして声を上げたあともこちらを興味深そうに眺めてくるのか。というか、うるさいというなら早く何とかしてほしいんだけど。

「不倫してる人だ」

 その言葉が耳に入った瞬間、彼に対する非難が霧散し頭の中が真っ白になって。じわりと首の後ろに汗をかいた。社会の道徳に反している以上、人からの糾弾なんていつかは通る道。それは覚悟していたつもりだったのに。
 動揺はほんの少しの沈黙を生んで、私の逃げ道を封じる。いまさら知らぬ存ぜぬとうそぶいてみても、肯定にしかならないだろう。それならこちらから腹のうちをのぞかせて、余裕をみせるべきだ。停止したはずの脳はやけに冷静にそう導き出す。しかし実行には移せなかった。

 どうして知っているのか。どこまで知られているのか。そんな単純な問いを口に出すのが、怖い。

「あ、噂にはまだなってないよ。俺はたまたま見かけちゃっただけ」

 何も言い返せない私のそばに、彼はためらいなく近づいてきて。腕を伸ばされ、反射的に身をこわばらせるけれど。彼の指は私を通りすぎて画面に触れる。ぴ、と音を立てたのち、あんなにうるさかったコピー機が沈黙して。

「ねぇ、俺と悪いことしない?」

 捕食者のような彼の言葉が、静まり返ったオフィス内に響いた。
 
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