OTHER GENRE

□空知らぬ雨(ラビ→ミランダ)
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 なあ、じじい。今や名を捨ててブックマンになったじじいにも、かつてこんな時期があったんかな。
 ここまで大きな戦いがなかったにせよアクマはずっといたし、じじいだって人間だ。きっと、あるはずだよな。

 ――そうじゃないと、オレは救われねェさ。





  空知らぬ雨





 日本へ向かう船が出航してからというもの、ラビの心を揺さぶる出来事が立て続けに起こった。
 その時のキーワードはいつも『仲間』だった。いずれブックマンとなるラビは、彼等エクソシストと本当の仲間になる事は出来ない。時を操る能力を持つ彼女の言葉を借りるなら、ここにこうしている事も『仮初』というのだろうか。
 常に彼等との間に見えない線を引き、ここから先に踏み出してはならないのだと自分を制御する。全てを記録し後世に残す為にいるブックマンは、自らの命を危険に晒してはならない。心はいらない、感情に流されるなど以ての外。傍観者であれ。
 まだ若いから、未熟だからといって甘えが許されるものではない。ブックマンの後継者であるが故に。

 けれどその決意に反して、旅を続けるうちに大切なものが増えていた。あれほど深入りはするなと師に釘を刺されていたのに。
 アレンが戦線離脱してしまった時から。リナリーがレベル3のアクマの元から戻ってこなかった時から。ミランダが確実に訪れる残酷な未来を嘆いた時から。船員達の切願を聴いた時から。
 いつだってラビの頭を悩ますのは、『仲間』という存在だった。『仮初』の、『大切』な――

 なあ、じじい。と、心の中で問いかける。こんなジレンマに思い悩んだ時期が、師にもあっただろうか。しかしそれは決して本人に訊ねたりはしない。ジレンマがあったにせよなかったにせよ、師は現在ブックマンなのだから。全てを乗り越えたはず。
 ならば、自分にも出来るはずなのだ。

 ラビはちょめ助が運ぶ小船の縁にもたれて座り、雨の止んだ静かな海を眺めていた。夜の海は墨を垂らしたようにどこまでも深い闇色を湛えていて、空との境目すらよく解からないその水面をじっと見つめていると飲み込まれそうだった。
 伊豆に向かう間、特に船を漕ぐ必要もなかったので、ほとんどの者が先のアクマの襲撃の対応に疲れ切って眠っている。ラビも先程まで体力回復の為に仮眠を摂っていたのだが、あまり深くは眠れなかった。
 海の藻屑となったアニタの船、それ自体に関しては、大した感慨は持っていない。でも、その時が来てほしくないとは思っていた。そしてそれとは相反して、早く来ればいいと待ち遠しくも思っていた。
 そんな矛盾した気持ちを抱く理由は解かっていた。前者は純粋に、多数の死者が生まれるのを目の当たりにしたくなかったから。後者は――

 キシッ…と、眠りについた者を起こさないよう配慮しながら誰かが静かに起き上がる音が微かに聴こえた。
 船の外を見て物思いに耽っていたラビはその音に気づきハッと見遣ると、暗闇に慣れた隻眼が少し離れた位置にいる女性の黒いシルエットをすぐに確認した。
 その人物――ミランダは、ラビがちょうど思考を傾けようとしていた相手その人だった。
 何日も寝ていない上に、船のダメージを一手に引き受けて体力を消耗しきっていたミランダは、ラビがもたれているのとは反対の縁までヨロヨロと向かった。
 ちょうどこちらに背を向ける形になっているので、ミランダはラビが起きている事に気がつかないようだ。ラビは敢えてミランダに声をかけずに、斜め後ろから彼女の様子を眺める事にした。
 風に乱される黒髪の陰から、ミランダの蒼白い横顔がちらちらと覗く。大きな怪我はしていないはずだが、濃い隈が出来た瞼やこの数日間でやつれてしまった頬は誰よりも痛々しく見えた。
 ミランダはしばらく微動だにせずに海をぼんやりと見ていたが、やがて何の前触れもなく顔を歪め、瞳から大粒の涙を零し始めた。

「ッく…うぅ…」

 彼女の風下にいるラビにはその小さな嗚咽が確かに聴こえた。ともすれば、その雫すら手のひらに掬えるのではないかと思えるほどにはっきりと。
 ミランダがなぜ泣いているのかなんて、そんな事は深く考えなくても解かる。けれどそれはミランダの所為ではないのだ、決して。決して。
 死者への涙の量が足りないと言うのなら、自分の方がよっぽど――ラビは、自分がまだ傍観者でいようとしていた事が口惜しくて堪らなかった。

 ミランダのイノセンスの能力がどのようなものか、説明だけを聴いていたならば、攻撃も出来ないイノセンスなどこの戦いの何の役に立つんだと思う者もいただろう。しかし修理に何日もかかる船を一瞬で元に戻し、更に時間限定とはいえその空間内の傷をも預かってくれる能力は大きな助けとなった。これ以上を求める方が罰当たりというものだ。
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