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□恋人ごっこ
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 たとえば華美なデザインのボトルや香りのきついボディクリーム等の類いを廃したバスルームは、色気がない分、かえって居心地が良いらしい。そんな新発見についてプロシュートがぼんやりと考えているのは、水を張ったバスタブの中。
 いつも細かく結い分けているティシャン・ブロンドは解かれ、首筋に貼り付く髪が鎖骨近くにまで落ちている。そこから生まれた雫が平らかな胸板を伝い、鳩尾辺りにまで迫る水面へと流れ落ちていった。
 バスタブの縁に後頭部を乗せると、冬の海のような青い色をした瞳が天井から吊り下がる古臭いペンダントライトを捉える。そして少し身を捩り、バスタブから出した手を床へと伸ばすと、ボトリングされた水が床に置かれていた。表面に汗をかいていることからも、冷蔵庫内との気温差を憂えさせるには充分だった。
 器用に片手でキャップを外し、ひと口煽り、また戻す。ラジオでも持ち込めば良かったかと後悔し始めたころ、玄関ドアが重たらしい音をたてて開かれた。錠が下ろされ、ブーツを脱ぎ落とす音と共に女の声が呼んだ。
「プロシュート」
 どこか上擦ったような響きを持つ声の持ち主は、おそらくベッドルームを覗いてから、バスルームへとやって来た。磨りガラス越しに伺える彼女のシルエットは、いつも通りのパンクなファッション。それを見るでもなく、彼は言った。
「こんな昼日中に外出とは、気が知れねえな」
 今朝方に見たニュースでは、今日の日中の気温は30度を軽く越えるとかなんとか。それなのに、彼女はどこからか帰ってきた。恋人を一時間近くも放ったらかしにして。とはいえ、勝手にやって来て、勝手にバスタブを拝借しているのだが。
 すると、しばしの間を置いた後、唐突に扉が開かれた。そして、ナナシが服のままバスタブに飛び込んできたのだった。盛大にあがる水しぶき。ちょっと驚いた表情のプロシュートと目が合うなり、彼女は高らかに笑い声をあげた。
 ちょうど良かったとうそぶく彼女に、プロシュートはつかみかかるフリをして抱き寄せた。
「行儀の悪い野良猫だな。念入りに洗わねえとなあー」
「洗われるの好きよ」
 そうしてバスタブ内でじゃれつく笑い声と水音、それから濡れた衣服が床に落ちていった。
 二人して裸になると、浅い水風呂の中でナナシは歌うように語り始める。
 朝焼けで彩られる海や町並み、涼しげな服装でバールに集う人々の様子や飛ぶように売れていくジェラートの気だるげに溶けた感じ。黄色く灼けた石畳をベスパに乗り合わせた恋人たちが走り去る正午。
 ナナシの口から伝えられる町の風景は、プロシュートが見知っている町とは異なっていた。同じ町なのに、見ている物が違うだけで、まるで別の町の話だ。
 そういった彼女の話を彼女の声で聞くことが心地良かった。水風呂のせいか、おかげか。それとも、殺風景なバスルームが彩られるからか。
 ナナシの機嫌が良くて、生意気な事を薔薇の蕾のような唇から吐き出さないことも要因だろうが、その唇を力任せに塞いでやりたい欲求は鳴りをひそめていた。見つめ合って言葉を交わすことの楽しさと言ったら。
 そうして、すっかり健全な水浴びを終えるころになって、ちょっともったいないような気もしたが、結局のところはこの雰囲気を気に入っていることを認めざるを得なかった。しかし、頭からバスタオルを被った彼女の細腰に住む黒い太陽を見やりながら、プロシュートは提案する。
「どうせ暑いんだ。着替えをサボったって構いやしねえだろ」
 肩越しに振り返るナナシが瞬きを二回。そして、それもそうねと悪戯っぽく笑って、バスタオルを体に巻きつけた。
 言った後になって、その気になればしやすいなと思った。つまり、今すぐセックスになだれ込みたいという衝動が湧いてこなかったのだ。昼間だろうが朝だろうが、ナナシの白い肌を前にすると、まるでパブロフの犬よろしく、噛み付いて赤く染めてやりたくなるのが常だというのに。
 そんな自分がにわかには信じがたく、けれどバスルームを後にする華奢な後ろ姿を追いかける方が何よりも重要だった。
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