企画もの

□服従の下手ないぬ
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 かしゃかしゃと紙が擦れあう音に目を開けると、自分が今まで眠りの淵にいたことを思い出した。
 縦に長いアーチ型の窓は、白くて眩しい陽光を一杯に受け入れて、アタシの顔までその白い領域に閉じ込めようとするみたいに確実に、大胆に入り込んでは、日焼けした肌を刺すように左頬をジクジクと刺激する。いっそのこと、その白さで、この頬を塗り替えてくれればいいのに。

 唇の端がまだ痛む。冷たい血の味はしない。
 そのとき、終わる音がした。生き物が動くことをやめざるを得ないのは、途切れなく続く鼓動が止まったときだ。だけど終わりの音がある。羽が地面から浮き上がるような柔らかな音をなんと言い表せばいいか、アタシは知らない。

 人は“死んだ”瞬間、秤でも使ったようにきっかり、21グラムだけ軽くなるという。どうして質量が変わるのか誰も知らないし、魂の重さだという眉唾な解釈もあるけれど、軽くなるのは確からしい。もしかすると、アタシが聞いている音は、体が軽くなるその瞬間のものなのかもしれない。だけど、計った人間はどうしてそんなことを実験したのだろう。行動に理由はなくて、ただ知りたいから、やってみただけってことなのかもしれない。ああ人間ってのは虫唾が走る種類の奴もいるものだ。

 聞き覚えのある音が近づいてきた。いい革の、仕立てのいい靴が木や石の舗装された道を歩く音にうっとりとする。いい音だ。歩き方だって、少し右に傾ぐクセがあるものの、背筋がピンと伸びているのが見えるようで、やっぱりいい音だ。この人間の鼓動は、落ち着いていて、少し辟易しているのを隠しもしないのは粗暴さを垣間見せるけれど、音から思い浮かぶ色は、キラキラと綺麗に輝いていて温かい。なのに、凪いだ心が少し波立つのはどうしてだろう。

 アタシは目を閉じる。もっとこの音が聞きたくて、もっとその色を見て、感じていたくて、感覚を尖らせる。太陽の白い光の色は大嫌いなのに、この輝くような色は好き。
 靴音が立ち止まったのは、アタシとの間にドアがあるせいで、そのノブに手を伸ばす姿が目蓋の裏にありありと見える。少し手首を返すだけでドアは微かに軋んで開き、引っ張ってきたとすぐにわかる脚の長い椅子に腰を下ろして、窓の桟に頬杖を付いているアタシの背中を、訪問者は最初にその目に映す。

 椅子の上で膝を抱き、遥か眼下に広がる車の流れや人混みには無視を決め込んで、ひたすらに雲の流れや空を眺めるアタシの名を、その人間は呼ぶ。ひどく落ち着いた、粗暴な感情を含ませて。
「おい、名無し」
 怒っているわけでも苛立っているわけでもないけれど、そういう風な声に聞こえるのは、南イタリアの訛りのせいだろうか。
 
 肩越しに振り返ると、北イタリアなら見かけそうなハイソなスーツ姿の金髪の男が一人立っていた。開かれたドアの横にかけられているカレンダーには、ブルーの花かごに入ったブプレウルムの花の写真がプリントされている。

 アタシの名を呼んだ男は、部屋の中には入らずに、綺麗なブルーの目でアタシの左頬を見て眉間に深い皺を刻んだ。睨まれているのとそうそう変わらないが、不機嫌にさせる理由には思い当たる節がない。アタシは未だかつて、この男を怒らせたことはない。苛立たせたことはあっても、噴火させたことはなかったし、そこまで馬鹿をやらかすほど、アタシにとって気に食わない男ではない。いや、そういう人間ではない、と言ったほうが正しい。

 男が黙り込んで、けれど視線は注がれたままなのは心地悪い。
「何。何か用。プロシュート。そっちは滞りなく片付いたみたいで、良かったわね」
 沈黙は嫌い。聞きたくもない音が次から次へと押し寄せてくるから、喋っていたい。聞こえないように制御することもできるけれど、今は、上手くできない。アタシは人よりずっと“耳がいい”から、ギャングの世界なんかで生きている。ここ以外で生きることのできない奴は、アタシ以外にもゴマンといるから珍しいことではないけれど、だからといってアタシは大人しく頭を垂れたりはしない。
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