1859text-1 きりりく・捧げ物再録集
□姫事―ひめごと―
1ページ/1ページ
風邪をひいてしまった。
節々が重たく、微熱を孕んでだるい。喉が腫れあがり、呼吸をするごとに火を吐くような熱感があった。
一刻も早くこの症状をマシにしたい――獄寺は水を求めて、布団から這い出した。
目指す台所に灯っている明かりは、昨夜自分が消し忘れたものだっただろうか。否。
「……何してんだよ、てめ……」
勝手に人の家に入ってんじゃねえ、そう言おうとしたが、喉がひりついてまともな声が出ない。
しかも野菜を切る雲雀の手元は既に、ざるの上へ葱を置いたところだ。
他に何か菜っぱと大根と人参、椎茸も入ったそれは何か、もう下ごしらえを終える所に見えた。
「昨夜、どうしても君に会いたくなって部屋まで来た。そしたら……熱出てたみたいだから。今朝はうどん作ったよ」
「う」
あ、ありがてえ。
獄寺は思わず礼を言いそうになり、会話のおかしさにようやく気が付いた。
「……昨夜? 昨夜からウチに居たのか、てめー」
「そうだよ」
まるで気が付かなかった。それなのに雲雀ときたら、獄寺が風邪で発熱している事まで気付いていたと言うのか。いったいウチへ押し入って何をしようとしていたのか……怖くて訊けない。
「……今日は学校、休むんでしょ。連絡しといてあげる」
「なっ……ふざけんな! 余計なお世話だ!! オレが風邪ごときで休むだなんて、カッコわりーだろーが!」
雲雀にうどんをつくってもらい、それを食して登校すると言うだけでも相当に格好に悪い。そんな事が許せるはず、ない。
「いいか! オレが風邪引いた事は黙っとけ! てめーがウチに来てた事もだ!! わかったな!!」
「……二人の秘密ってことだね。いいよ」
なんだその、怪しげな含みは。
雲雀がにやりと笑って見せたりなんてするから、獄寺の微熱はさらに温度を上げてしまったが、それも秘密のうちだった。
◆ひめごと◆
ひりつく喉を、醤油味を控えて出汁を生かしたつゆが潤していく。
こくんとそれを残さず流し込み、獄寺は遠慮がちに呟いた。
「……う、美味い……」
「良かった」
どこから出したのか、黒い腰巻きタイプのロングエプロンを身につけた雲雀が、目の前に手を差し伸べている。
「おかわり。いるでしょ。たくさん食べなよ」
「お、おう」
頬が熱いのは微熱と、うどんのつゆを一気に飲み干したせいだ。
すこし動悸がするのも風邪のために違いない。
……早く治して、綱吉の宿題を確認しなければ……。
今日は英語も、単元が古典に入った国語も、それぞれ宿題を当てられる日だった。自分が行かなければきっと、宿題を忘れているだろう綱吉は恥を掻く。
「悪ぃ、おかわりはいいから……オレもう行くぜ、ヒバリ」
「……」
パーカーの袖に腕を通しながら、顔を振り向けて台所を見る。
じっと黒い瞳が獄寺をのぞき込んだ。
「せっかくよそったのに、食べないんだ。ふうん」
かち合った瞳の奥、黒光りする目の中に獄寺が映り込む。どこか困惑したような獄寺に、雲雀は意地悪げな光をちらつかせた。
「じゃあ担任に電話しておく。獄寺隼人は風邪で遅刻します、って」
「う、うるせえな、いちいち!」
不慣れなやりとりに喚く獄寺の額へ、雲雀の手のひらがひたりと付けられた。
ひどく痛怠い感覚を訴える皮膚の表面。獄寺はびくりと肩を震わせた。
「……ねえ、本当に今日は休みなよ。この熱……もし、インフルエンザだったらどうするの? 周囲に伝染したら大変だ」
そのまま雲雀の手のひらが額を撫でていく。前髪の生え際を擽るように梳く感覚にぞくぞくする。
「……」
「黙っておくから、今日は休んだ方がいい」
「……わーった……休む」
「そしたらもう少し眠れば。僕も片づけたら帰るから」
殊勝な雲雀のことばを拾い、獄寺は思わず雲雀が帰った後に残る、寒々しく人気の無い部屋を想像してしまった。
悪寒に震えた指先が、惑う。
雲雀をこのままここへ置いたら、昨夜から何をする気か判らない彼奴が、何かとんでもない事をしてくるかも知れない。
……それでも。
額に触れた雲雀の体温。身体を苛む風邪の諸症状、それらを絶対和らげたりはしないはずの存在を、何故か弱気になった心が欲して止まない。
決して言えない気持ちを秘めながら、獄寺はためらいがちに雲雀の黒いエプロンの端を掴む。
「……帰っちまうの、か?」
「だって寝てるの、邪魔するわけに行かない。僕が居たら君は体力を消耗するよ。……それでいいの?」
「体調悪いのは苦手だ……」
まるで嘘を吐いているみたいに、頼りない声が震えた。雲雀が意地悪そうな笑みを浮かべる。
「僕が休みの理由も……二人の秘密だね」
そしてこれから、雲雀が獄寺と、布団の中で何をするかも。
君がこれからどんな声を上げるのか、どんな表情をして喘ぐのかも、二人の秘密。
「くそ……インフルエンザ菌思いっきり吹き込んでやる……」
その後日、雲雀が珍しく風邪を引いた理由すら、二人の秘密のひとつに違いなかった。