それはきっと
□さよならの言葉
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遂に十日目の夜を迎えた。
昼間、私の様子を見に来た牛鬼はこう告げた。
「この分なら、明日にでも家へ帰れるだろう」
やっと、私の足はほぼ自由を取り戻した。杖無しでも歩けるようになり、痛みも全く感じない。
けれど嬉しい筈なのに、どこか悲しいのは何故なんだろう。
一刻も早く家に帰りたいと思っていたのに、いつの間にか私は此処にもっと居たがっている。
これが、私がこの牛鬼組で過ごす最後の夜だ。何となく勿体なくて、眠れない。
今度空が明るくなったら、家に帰っていつもの生活に戻らなくちゃいけない。最も望んでいた事の筈なのに。
どうせ眠れないなら外で過ごそうと、襖を開けた。
「…何してるの?」
「晩酌」
縁側で一人、座っている牛頭丸を見つけた。
何食わぬ顔でそう言った牛頭丸の隣に座る。
「お酒?」
「当たり前だろ」
「…不良ー」
「馬鹿、俺はお前の何倍も生きてんだぞ」
夜風が涼しい。
私は足をぶらぶらさせながら、何となく空を見上げた。綺麗な満月がはっきり見える。
帰ったら、もう一生牛頭丸に会えないかもしれないと思うと、寂しい。
「お前、寝ないの?」
「…なんか、寝たくない」
「明日の朝帰るんだろ?」
「…………うん」
こんなにも苦しくて寂しくて堪らないのは、何でなんだろう。
初めはとんでもない所に迷い込んだと思った。妖怪が怖かった。でも一緒に過ごして、話をして、人間と何にも変わらなかった。
だからこんなに、辛いんだ。
「…ねえ、牛頭丸」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとね」
「…前にも聞いたな」
「まだ言い足りないの」
でも、私が一番言いたい事はこれじゃなくて。
最後なんだから言ってしまおうか、とさっきから迷っているのに、喉の奥で引っ掛かってどうしても外に出ていかない。
一言でいいのに、その一言が紡げない。
「…もう会えないのかな」
「あー…まあ、多分な」
「そっか」
「お前としては嬉しいだろ」
「……なんで?」
駄目だ。
駄目だ、駄目だ。
声が震える。
「お前だって妖怪なんかに二度と会いたくないだろ」
そんな事、ない。
全然、そんな事ないよ。
言いたいのに、どうして思う通りに私は喋ってくれないんだろう。
「……な、何泣いてんだよ!?」
「……だ、だっ、て…」
困らせるのは分かってるから絶対泣きたくないのに、どうしても止められない。
ぼろぼろと後から後から涙は零れて地面に染みを作る。
「…どうしたんだよ」
ほら、分かってたのに。
やっぱり牛頭丸は、困ったような顔をする。
呼吸が整わない。おかしくなったかの様に、喉が締め付けられる。
「…わ、私、ね」
それでも必死に、何とか伝えたくて。
言葉を塞き止めていた何かが決壊したかの様に、その一言は言えた。
「…私、牛頭丸が、好きだよ…!」
何もかもが止まった様な気がした。風の音も自分の心音も全てが聞こえなくなった。
牛頭丸は、黙ったまま。時々何かを言おうとして口を開きかけては、途中で口籠もる。
そうしてるうちに何かを決心したかの様に、牛頭丸は私の涙をぐいと親指で拭った。冷たい指の感触が頬を伝う。
「馬鹿だ」
突き放すような冷めた声。
「馬鹿だ、お前」
それ以上何も牛頭丸は言わない。何もしない。
まだ涙の止まらない私に呆れてしまったのか。
そのまま静かに、牛頭丸は暗い廊下の先に消えてしまった。もう、あの赤い着物の影はどこにもない。
嗚咽が治まった頃に、私もふらふらと部屋に戻った。布団に倒れ込んで、白いシーツを握り締める。
後悔はない。本当に言いたい事は言った。受け止めて貰えない事も勿論分かっていた。
なのに、どうして私は今こんなに辛いのか。
眠れないまま、空が少し薄明るくなってきた。
「…なあ、馬頭丸」
「んー、何?」
早朝の五時を回った頃。牛頭丸はまだ目覚めて間もない馬頭丸の部屋を覗いて言った。
布団を丁寧に片付けながら馬頭丸は耳を貸す。
「今日、あいつ送ってくの替わってくれ」
「え」
馬頭丸はぴた、と手を止めて驚いた様に牛頭丸を見た。
「どうしたのさ、あの子の事結構気に入ってた風だった癖に」
「ばっ…だ、誰がだよ」
「楽しそうだったよ、牛頭丸」
「…………」
「まあ、どうしてもって言うんなら別に替わっても良いけどさ」
「………」
「牛頭丸は、それで良いの?」
「………っ、あー!!わーったよ、行きゃ良いんだろ行きゃっ!悪かったな!」
牛頭丸はぷいと背中を向けて、罰が悪そうに出ていってしまった。
「…不器用な奴だなあ、もう」
素直になれば良いのに。
朝の六時頃。
朝の早いうちの方が人目に付かないのだと、この時間に私は山を下りる事になった。
「本当に、お世話になりました…ありがとうございました」
「ああ」
牛鬼に深々と頭を下げた。無口だけど、本当に気遣ってくれて面倒見てくれて、とても優しい妖怪。
牛頭丸が憧れるのも、分かった気がする。
「…行くぞ」
「…うん」
ふもとまで牛頭丸が案内してくれる。とはいえ、やっぱり昨晩の事があってか素っ気ない様な気がした。
今更言うんじゃなかったとか後悔しても仕方ないのは分かっているけど。
山を下りる間、一言も喋らない。沈黙が辛い。じゃりじゃりと土を踏み締める音だけがひたすら響く。
「…………」
背中が、遠い。
もう、これで本当に最後なんだと思うとまた泣きそうになる。唇を軽く噛んだ。
「…ほら、その階段下りたら道路に出る」
「…あ、うん……ありがとう」
そうこうしていたら、もう着いてしまった。
後は真っ直ぐこの石段を下りて、駅に向かえば良い。
もう本当の本当に、最後のお別れ。
「…じゃあ、な」
するりと牛頭丸は私の横を通り抜けて山道へ戻って行く。結局、最後の最後まで目は合わせてはくれない。
このまま終わりは、嫌だ。
「…牛頭丸」
「……牛頭丸っ!」
振り返らないまま、半ば自棄のように叫んだ。牛頭丸に届いているのかは知らない。
それでも最後にどうしても言いたい事がある。
「…また、会いに来るよ?」
ぎゅっとスカートの裾を握り締めた。
「私の事、嫌いで良いから、……また、会ってね?」
初めから会わなければ良かったとは、思わない。
会えて楽しかったし、嬉しかったし、幸せだったから。
「ありがと」
後ろをそっと振り向いた。牛頭丸の姿は、ない。
「……聞こえてない、か」
残念だった様な、すっきりした様な気持ちで、私は石段を駆け降りた。
「……聞こえてるよ、馬鹿」
その声は風に掻き消されて、私の耳まで届かないまま。