それはきっと
□違う世界の入口
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目が覚めると、天井が目に入った。
まだ意識ははっきりしないけれど、ひんやりしたシーツの肌触りから恐らく布団の中だという事が分かった。
何だ、とほっと胸を撫で下ろした。あれはやっぱり悪い夢だったんだ。
現実にあんな事ある訳がない。実際は遭難なんてしなかったし化け物に襲われもしなかった。
全ては私の頭が作り出した妄想だったんだ。
そう納得しかけて、頭がはっきりしてきたのか違和感を感じた。
周りをよく見渡してみると、ここは私の部屋じゃない。見慣れた机も並んだぬいぐるみも見当たらない。
それに今私が着ているのはいつもの寝巻でなく、白い着物。絶対におかしい。
まだ私は悪夢から抜け切っていないのだろうか。
体を起こそうとした。
激痛で上半身を起こすのがやっとだ。とても歩ける状態じゃなさそうだ。
さっと血の気が引くのを感じた。悪い予感が頭を過る。
頬に手をやった。
押さえてみると痛みが走るが、治療されている。と言う事は、やっぱり昨晩のあれは夢でも妄想でもない、紛れもない事実だったということで。
くらくらと視界が揺れた。一体私は何処に居るんだろう。
どうすることも出来ずに戸惑いながら周りをきょろきょろと見渡していると、すっと部屋の襖が静かに開いた。
「気が付いたか?」
「…………あ…」
現れたのは和服の背の高い男の人だった。一見して中年男性に見える。その貫禄は、今までに私が目にしてきたどの人とも違う物のようだった。
体を動かそうとして腰を捻ると、またも激しい痛みに襲われた。
「まだ回復しきっていないだろう…無理をするな」
「…あの、私……」
「…昨晩の、妖怪に襲われた時の記憶はあるか?」
「!」
妖怪。
やっぱりあれは嘘のような現実だった事を確信した。信じ難い話だけど信じざるを得なかった。
あの恐ろしい記憶、私の体に刻まれた傷、そしてこの人の台詞。全てがそれを証明している。
「…私、道に迷って……妖怪に殺されかけて…それから…」
必死に記憶を手繰る。気を失う直前、あの時に出来るだけ近付いた。
「…誰かに助けられた」
そうだ。あの時の和服の少年が妖怪を斬ってくれたお陰で私は死ななかった。
ぼんやりしていた記憶が徐々に鮮明になっていく。
「お前を此処まで運んできたのは、牛頭丸だ」
「ご……?」
「此処は捩目山の再深部にある『牛鬼組』…妖怪の集団だと思ってくれれば良いだろう」
「…じゃあ、貴方も妖怪?」
「…私は当主の牛鬼。勿論妖怪だ」
不思議と驚きはあまり無かった。感覚が麻痺してしまったのだろうか。
今の私なら例え明日世界が滅亡すると言われても何も思わないような気がする。
「でも、私を襲ったのが妖怪で…助けたのも妖怪?」
「お前を襲ったのも牛鬼組の妖怪だ。普段は無差別に人を襲わないよう言っているが…時折、命令に背く奴もいる。済まなかった」
「あ、い、いえ…」
頭を深々と下げられて、私の方が何故か申し訳ない気持ちになる。
怒りも悲しみも、今は特に感じていなかったからだろうか。
「今の怪我では到底山を下りる事は出来ないだろう」
「…………」
足を持ち上げようとしてみる。
けれどぴくりともしなかった。自分の物で無いかの様に足は言う事を聞かない。
「歩けるようになるまでは此処で療養すると良い。怪我をさせてしまったのは此方の責任だ」
「あ、有難うございます……」
普通の状態なら妖怪にお世話になるなんて、とても怖くて出来ない。けれど今、歩けない上帰り道も分からない私にはそんな事を考える余裕はない。
ここでもし見捨てられれば、今度こそ死ぬのは必至だろう。
それに、昨日の妖怪と違って牛鬼と名乗った妖怪は妖怪という感じがしなかった。見た目の所為なのだろうか、人間に近い気がした。
牛鬼が部屋から出て行った後、色々思考を巡らせてみたが、今私に出来る最善はきっとこのまま此処で療養する事だという結論に達した。
その間襖越しに沢山の足音が通り過ぎていった。
牛鬼の話通りならこれらの全ては妖怪のもの、という事になる訳で。
不思議な感覚の中で耳を澄ませていると、また一つ足音が近付いてきた。
通り過ぎるかと思えばそれは私の今居る部屋の前でぴたりと止まり、誰が入って来るのかと心臓が跳ね上がった。
「………………入るぞ」
「…あ」
少し乱暴に襖を開けたその妖怪には見覚えがあった。昨日、あの化け物を斬り倒した赤い和服の少年だ。
彼は凄く怪訝な顔をして、私を見下ろしていた。
「……服」
「え?あ、あ…ありがとう…」
彼の手にあったのは、私の服だった。恐らく洗ってくれたのだろう、泥や血で汚れたはずの服は綺麗だった。
彼は私にそれを渡すと、無言で背を向けて出て行こうとした。
「あ、あの…」
「…………」
「助けてくれて、ありがとう」
「…………」
沈黙。
何を思っているのか、何もお互い言葉は出ないし出て行こうともしなかった。
返事を待ってどれくらい経ったか、暫くして彼は私に向き直って冷たく言った。
「…牛鬼様の命に従ったまでだ。俺は人間なんて大っ嫌いなんだよ」
「…………」
「それだけだ」
「……でも」
再び背を向けた彼は、足を止める。
「あなたがどう思ってようと、結局私は助けられたんだよ?だから、ありがとう」
「…………」
私がそう言うと、彼は目を合わせず襖を閉めた。
「変な奴」
「…そうかな」
襖越しにそう、一言だけ交わすと、彼の遠ざかっていく足音が聞こえ始めた。