それはきっと
□私を嫌いな神様の計らい
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今、一体何時なのだろう。
今、私は何処に居るのだろう。
とっくに日は落ちて辺りは薄暗くてよく見えない。どこまで行っても同じような木が同じように並んでいるようにしか見えない。
リュックの中から携帯電話を取り出した。ディスプレイの薄明かりでぼんやりと辺りが光る。時刻は20時を回っていた。
私の予定では、もうとっくに帰宅していて夕飯を食べ終わっているはずだった。
しかし今、私が居るのはいつもの家ではなく、不気味な山中だ。
もとはと言えば、父親が「捩目山へ行く」なんて突然言い出したのが元凶だ。アウトドア派である父親はこうして休日に見知らぬ山へハイキングに行くのが好きだった。
気紛れで付いてきてしまったあの時の私の判断が、今となっては憎くて仕方ない。
私の状況はつまり、所謂、『遭難』だ。
現実に自分がこんな目に遭うとは考えたこともなかった。テレビなんかで「遭難者がマヨネーズを食べて助かった」って話を聞いたことがあるけどあいにく今の私はマヨネーズなんか持っていない。
マヨネーズどころか食べられるものは何一つ所持していない。
夕飯の時間をとっくに過ぎた今、空腹はピークをとっくに越えている。
空腹に加えて、さっきから数時間歩き通しの為に体力も限界だった。
更に悪い事に、私の服装は登山用の物ではない。ジャージで出歩くのが気に食わなかった為、父の勧めも聞かずに普段着で来てしまった。
一歩踏み出すたびに草木は足を傷つけ、夏場の為に蚊の数も尋常じゃない。
どうして自分がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
当然携帯はいつ見ても圏外で使えない。
足が棒のよう、というのは今まさにこの状態のことだろう。
体力の限界を迎えた私は、半分投げ遣りになって近くにあった大木の根元に腰掛けた。
もう一歩も歩きたくない、と言うか歩けない。
今日の夜、私は無事に寝床につけているだろうか?
神様が私を嫌っているのだとしか思えないほど絶望した。
その時、ガサガサと草木が大きく揺れる音がした。
初めは風かとも思ったけど、そうじゃない。風はほとんど吹いていない。
ガサガサ、ガサガサ、と、その音は少しずつこちらへ近付いてくる。
何か「生き物」が居るのは確実だと思った。
心臓がバカみたいに五月蝿く速く鼓動を始めた。
そうして遂に、その生き物の形が見えてきた。
「…………え?」
頭がおかしくなったのかと思ったけれど、そうではない。でもそう思わずいられない。
はっきりと見えたその鋭い爪は、私が十数年間で見てきたどの生物の物でもない。
どう考えても、獲物を仕留めてバラバラにする為のものだ。けれど肉食動物のそれとは格が違った。
「う……」
凄まじい異臭がした。これは明らかに人でも動物でもない。しかし私は、そんな生物の存在は知らない。
この生物にそれでも敢えて言葉を付けるならば「妖怪」という言葉がぴったりと当て嵌まった。
『人間、か?』
「!!」
『小娘』
「…………あ…」
歯ががたがたと震え始めた。今自分が居る場所はもはや、今まで自分が生きてきた世界とは違う世界のように感じた。
だって私は、人間以外の生物が人間の言葉を喋るのを聞いたことがない。
逃げないと、死ぬ。はっきりとそんな予感がしているのに、私の体は動かなかった。
いつの間にか空は雲が覆い尽くしていて、雨が降り出していた。
『美味そうだなぁ』
そう、不気味な声で妖怪が嬉しそうに言った瞬間、凄まじい轟音が響いた。雷が近くに落ちたのだろう。
その音に反応してか体が動くようになり、私は一目散に駆け出していた。
どれくらい走っただろう。木の枝に肌を引っ掻かれ、泥に服を汚され、とにかく走った。走らないと死ぬのは確実だった。
都合の悪い事に、雨で地面はぬかるんで走りづらい。
「あっ!!」
泥に足を取られ、派手に転んだ。
全身に激痛が走っていることに気付いた。
『逃げるな、小娘』
「…………!」
あれだけ走ったのも全て無駄だと嘲笑うようにあっさりと追い付かれている。
もう体は動かない。
「…化け物」
大きな爪が、私の頬を突き立てる。
声にならないような痛みと共に、見た事もない程多量の真っ赤な血が地面へ広がっていく。
もう、普通の人間の私にはどうも出来ない。
何一つやれないまま死んで行くのは酷く心残りだけど。
意識が何処かへ飛びそうになったその時、ぱっと化け物の爪が私の頬から離れた。
私の体はが乱暴に投げ捨てられ、地面に転がった。
何事かと妖怪を見ると、酷く怯えた表情をしていた。
その目線の先には、
『牛頭丸殿…!』
「…………」
いつの間にか、一人の少年が腕組みをしてそこに立っていた。
真っ赤な着物を纏った彼の気迫は、先に私を襲ったその妖怪よりも遥かに上だった。
「何をしている、お前」
『…あ…そ、の…』
「無条件で人間を襲う事を牛鬼様は望んではいない」
『しかし、』
「お前みたいな奴に牛鬼組の紋を背負う資格はねぇよ」
そう冷酷に言い放ったその少年は、腰に差した刀で妖怪を切り捨てた。
一瞬の事で、何が起こっているのかまだ私の頭は理解出来ない。
とにかく私は、助かったんだろうか?
それでも朦朧とした意識を維持するので精一杯だ。
「…………」
少年はちらりと私を見た。眉間に皺を寄せ、いかにも不機嫌な表情。
だけど幼さが残っていて可愛い顔立ちをしている。
暫く無言で彼は私を見下ろすと、興味もなさそうに背中を向けた。
「…………あ」
去り行くその背中が、私が気を失う直前に見た最後の光景。
そこでぷつりと記憶は途切れた。