短編集

□白馬のおじさま
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『キャハハ! おじちゃま……おヒゲがくすぐったいよ』

 どんな未来が訪れるかも知らず、無邪気にはしゃいでいたあの頃。今は嫌悪感を抱くそれも、幼い彼にとっては、好きなものの一つでしかなかった。
 手を差し延べられた記憶は、もういつのものか分からない。
 それでも、この絶望的な生活の中、彼がいつか迎えに来てくれるんじゃないかと、未だに時々夢見てしまう。
 まるで、白馬に乗った王子様。けれど、現実は髭面のおやじに身体を弄ばれる日々。
 誰か助けて……叫ぶ声は、広い屋敷の中に響き渡るだけだった。





「あっ、あっ……もうやめて。お願いだから……離して、おじ様……っ」

 天道櫁は今日、高校の入学式を控えていた。
 もう家を出なければ間に合わないというのに、大きな身体でベッドに押さえつけられ、下半身を弄ばれていた。
 櫁に呼ばれた男は、わずかに顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべる。顔の半分以上を占める髭、逞しい身体はまるで熊のようだ。

「櫁……私の櫁……何度言えば分かるんだい? おじ様ではなく、お父様だろ?」

「んん……っ、ごめんなさい。お父様、いやっ、潰さないでっ!」

 彼は、事実上は櫁の叔父だ。しかし、櫁の両親が五年前事故で亡くなってから、櫁を養子として引き取ったのだ。
 老けて見えるが、年齢は三十代半ば。父の弟にあたる。
 叔父と言っても、櫁が初めて彼に会ったのは、両親のお通夜でだった。親族がいることを知らなかった櫁は、突然現れた大男に驚きはしたが、抱きしめられて涙を流していた。
 子供心に、悪い人じゃないと判断したのだ。そして、彼が自分を引き取ると聞いた時は嬉しかった。
 そして、櫁はすぐに彼に懐いたのだ。どんな目的で自分を養子にしたのかも知らずに……。



 天道と言えば、日本では知らぬ者はいないと言われるほどの資産家の血筋だ。
 祖父も他界しているため、本来ならその相続人は長男である櫁の父のはずだった。
 けれど、櫁の父は身分が格下の女性を愛し、祖父に反対されて家を飛び出していた。祖父が亡くなる数年前の出来事だ。
 その女性こそ、櫁の母で、すぐに櫁を身篭り、三人で幸せに暮らしていたのだ。
 祖父が亡くなり、天道の家を継いだのが、父の弟の秀次である。
 秀次としては、兄に家を相続してほしかったらしいが、櫁の父はそれを放棄したという。財産がなくとも、有り余るほど幸せだったのだ。
 それは、家族でドライブに出掛けて、三人が乗る軽自動車に飲酒運転のトラックと衝突するまでは――。
 




 黒塗りのベンツが、私立の名門高校の前に停車した。
 運転手が降り立ち、後ろのドアを開ける。そこから出て来たのは、小柄で綺麗な顔をした少年だった。
 どうやら櫁は、遅刻することなく入学式に間に合ったみたいだ。足元が覚束ないようだが、それを隠すように櫁は凛々しい表情を見せた。

「すまない。急な仕事が入って、私は式に出れなくなってしまった。代わりに良子さんにお願いしたから、しっかりやるんだぞ」

「……大丈夫だよ」

 櫁は怠そうに秀次に手を振り、助手席から降りた使用人の良子をチラリと見遣る。

(一人でいいのに……)

 秀次が忙しいのはいつものことだ。もう慣れている。
 そのたび、良子や他の使用人に迷惑をかけることのほうが、ずっとつらいことだ。

「良子さん、ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」

「いえいえ。本望です。こちらこそ、よろしくお願いいたしますね。お坊ちゃま」

 頭を下げる櫁に、良子は日だまりのような微笑みを向ける。
 母親の代から天道家に仕える良子は、秀次の一つ年下であるが、誰よりも信頼の置ける人物だ。
 それは、秀次が櫁の入学式まで任せる事実だけでも表れているだろう。今までも、櫁の母親代わりを何度も買って出てくれた人でもある。

「では、櫁を頼む」

「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「じゃあな、櫁」

「行ってらっしゃい」

 実の父親としか思えないほどの優しい笑みを残し、秀次の乗る車は発進した。
 櫁は胸が締め付けられる思いで、車を見送る。
 あの人が、本当の父親だったらどんなに幸せだったろう。あんな関係さえなく、あの笑顔だけもらえたなら……。

「お坊ちゃま」

 うつむく櫁の肩に、良子の手がそっと乗せられる。

「旦那様が出れなくて残念でしたね。代わりに私がしっかりお坊ちゃまの成長を目に焼きつけておきます。さあ、行きましょうか」

「……うん」

 秀次がいなくて拗ねているのだと良子に笑われたようで、櫁はこっそり頬を染めた。
 もう子供じゃないんだと胸を張って姿勢を正せば、良子は嬉しそうに目を細めたのだった。
 
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