短編集
□眼鏡を外したらキスをして
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適当に聞いたふりでもしようかな……。
なんて、染谷が来るのを待ちながら、俺は既に逃げたい衝動に駆られていた。
でもそうしないのは、俺自身も興味があったからかもしれない。
(だからって、恩を仇で返すようなことを……)
俺が染谷に憧れるようになったのには理由があった。
入学そうそう赤点を取ってしまった俺に、委員会だからってだけで、染谷が付き合って勉強を教えてくれたのだ。おかげで追試は合格点をもらえた。いわば染谷は恩人。
『えーっ! 今日デートだから見逃してよ』
泣きつく俺を、担任は軽くあしらった。それどころか仲間たちも、俺に巻き込まれたくないと、そそくさと帰っていく。
俺は捨てられた子犬のように、悲しくうなだれるしかかなった。
『んー、追試がよければ帰っていいよ。んー、染谷、委員長でしょ。栗原に勉強教えてやってよ』
『えっ!?』
苦手だった染谷の名前を出されて、俺は凍りつく。
そもそも、染谷がそれを納得するはずないと思った。なんの面識もない俺に、そこまでしてやる理由がない。
『いいですよ。追試が始まるまで俺が彼に教えます』
けど、染谷はいつもと変わらない表情で、あっさりそれを承諾してくれたのだ。
だけど、申し訳ないのと、染谷に苦手意識があったのとで、失礼だって分かってても、俺は顔を上げられない。
『大丈夫だ。二人で頑張ろう』
それなのに、染谷は俺に笑顔をくれた。初めて見る笑顔。冷たいと思い込んでいた眼鏡の奥の瞳は、優しく細められていた。
勉強も分かり易く教えてくれ、理解不能だったただの記号が、ちゃんと数式として見れるようにまでなった。
『頑張ったな』
結果まで見届けてくれた染谷は、また俺に笑顔をくれた。
胸が熱くなる。それから俺は隠れ染谷ファンになった。デートの遅刻が原因で、彼女にふられちゃったけど、なぜか俺は全然落ち込まなかったんだ。
「――栗原、まだ残ってたのか」
過去の思い出に耽っていると、突然背中から染谷の声が聞こえて、俺は過剰に反応してしまう。
「どうした?」
心地いいテノール。自分にそれを向けられてるのも失念して、うっとり聞き惚れてしまう。
「わっ!」
気づけば目の前に不可解そうな染谷の顔があった。俺は慌てて立ち上がろうとして、バランスを崩してしまう。
(やべ……っ!)
転ぶと思って目をギュッと閉じるが、その衝撃はいつまで経っても訪れず、俺はゆっくり目を開く。
「あっ、そ、染谷……ごめん」
更に染谷のドアップ。どうやら、染谷が俺の身体を支えてくれていたらしい。
俺は完全にパニック状態だ。染谷の綺麗な顔は目の前にあるし、腕は思ってたより逞しいしで、もう。
「なに百面相してるんだよ。おかしな奴だな」
「あ、わわわ……」
その言葉で我に返り、俺は顔を真っ赤にして染谷から身体を離す。
今度はからかうような笑顔を見てしまった。貴重な笑顔。普段は怖いくらい無表情なのに。
(俺って、やっぱりラッキーな人間かも)
そう思う反面で、激しく落ち込む自分がいる。眼鏡のレンズに映る平凡な俺。近づけば品格の差を見せつけられる。だから、迂闊にしゃべりかけることもできなかった。
しょせん俺はいじられキャラでしかない。小動物みたいとか、からかいやすいとか言われても別に嫌じゃなかったけど、染谷の前だとそれが死ぬほど嫌だ。
「もしかして、俺に相談でもあったのか?」
「いや、あ、うん……もうすぐテストだから勉強教えてほしくて」
思いっきり不審に思われただろう。だけどうまい理由を考えてなかった俺は、とっさにそう答えていた。
答えてすぐ、新たな不安に襲われる。俺なんかに頼み事されて迷惑じゃないか。ちょっと優しくしたからってつけあがるな。そんな言葉で断られたら、きっと俺は立ち直れない。
「い、忙しかったらいいんだけど……」
だんだん声が小さくなってくる。染谷の顔がまともに見れない。
「そんなの気にしなくていい。だから、そんな悲しそうな顔するな」
あっ、と思った時にはクシャっと頭を撫でられた。
そんな顔に出てたんだろうか。迷惑どころか心配までさせて、俺はどうするつもりだよ。