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□唇のジレンマ
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「今日帰りにうち寄ってかない? 前も言ったけどおれ一人暮らしだし」
「そんな警戒心も持たずに、男を部屋に入れていいのか?」
女の子でもないのになんでそんなこと――と言いかけて口を噤む。
そういう関係だと意識してくれてる証拠だ。むしろ深い関係になりたいと望んでいるのは環のほうだ。
「やっぱやめとくわ。また今度な。あと一時間くらいだけど、おとなしく待ってられるか?」
「ん、へーき。ここで待ってる。戻っていいよ」
本当は残念だけど、文句はない。甘いやり取りが妙にくすぐったくて、環は照れ隠しにへらっと阿呆みたいに笑って周防を送り出した。
帰り道、環の住むマンションまで歩いて二十分の距離を、周防は環の自転車を片手で押して歩いてくれる。
車道側を歩くのはいつも周防だ。千鳥足の酔っ払いとすれ違った時は、なんでもないような顔で肩を抱かれた。
手を繋ぎたいと思うより先に、バスケットボールを掴めるほどの大きな手、長い指が環の指に絡まる。
(参ったなー。おれなんかよりよっぽどタラシじゃん)
絡まったのは指だけじゃない。周防はあっという間に環の心まで雁字搦めに絡め取っていた。
最初は冗談半分で、遊び感覚だった。いつからかそんな感覚は消えて、気づけば綺麗さっぱりなくなっていた。
(キスしてほしいな……伝わってないのかな?)
きっと周防がくれるキスなら、残酷なくらいに優しくて甘いはず。環をグダグダのグズグズに溶かしてしまうだろう。
十五センチの身長の差が恨めしい。屈んで顔を寄せてほしい。そうじゃなきゃキスができないから――。
(ちゃんとつきあってるんだよね?)
男が相手ではそんな気分にならないのか。ふとした瞬間よぎる不安は、手のぬくもりだけを思い出して忘れるしかなかった。
「周防が好き……ずっと好きだったんだ」
媚びるような声に背筋にざわりと戦慄が走る。
放課後、待ち合わせの場所に到着するなり、環は気まずい場面に遭遇してしまった。
(どうしよう……)
やはり周防ほどの男を女がほっとくはずないのだ。
環とは違い、周防を好きなる相手は気持ちの重さが違う。軽い遊びなんか求めてない。本気の好きだ。
(やっぱ女の子がいいよな……おれの役目も、もう終わり?)
環は自分を誤魔化して笑おうとしてみるが、すぐに失敗に終わり、顔を歪める。
嫌だ。絶対に嫌だ。周防とこのまま終わりになるなんて、きっと耐えられない。
「ごめん。俺今つきあってる奴いるから」
周防の声を聞いてホッとした途端、その場に崩れ落ちそうになった。
(よかった……)
いつか終わることはわかっている。でもそれは今じゃなかった。まだ周防の傍にいられる。
歓喜に震える胸が破裂してしまいそうだ。飛び出して行きたい気持ちを抑えて、なんとか環はその場に踏みとどまる。
「来栖先輩とは別れたって聞いたよ。うちじゃ彼女になれない?」
申し訳ないけど早く立ち去ってほしい相手は、なおも食い下がって環の動きを拘束する。
「それはほんとだから。今は二年の椎名環とつきあってる」
あっと出かかった声を飲み込み、環は慌てて口を塞ぐ。
「椎名って……えっ、それ男じゃん。嘘つくなんてひどくない?」
「いや、マジだから。男だから彼氏って言えばいいのか」
少し苛立ちの滲む声。もしこれが環に向けられたものだったら、きっとショックでぶっ倒れていたに違いない。
(彼氏だって……)
改めてその言葉を使うのは違和感があったが、それが事実だと開き直ると身体の奥底から滲み出てくるものがある。
はっきり環のことを言ってくれたのが嬉しい。そのためにつきあってるんだから当然と言われれば当然だが、自然と頬が緩んでしまう。
「でも……だって、その先輩いい噂ないよ。女にだらしないらしいし、騙されてんじゃない?」
(事実だけど、騙してないよー)
「おまえより俺のほうがあいつのこと知ってる。ついでに言っとくと、処女とか勘弁だし。男がみんな初物好きとか勘違いしてる女はもっと最悪」
「ひど……っ」
さすがにそれは言い過ぎだと思ったけど、今は喜びが勝ってしまった。
(そっかぁ、処女嫌いなんだ……へぇ、そうなんだ……じゃない! おれも処女じゃん!)
ほんのり染まっていた顔から血の気が引いて、一瞬にしてサーッと青ざめる。
『今日用事あるから先帰る』
メールだけ送ると、環は慌てて帰宅した。
(やばい……)
最初に自分はなにを話した? 軽い気持ちで男に告白されたことがあるとか言わなかったか?
だからって男と経験があるわけじゃないが、周防は勘違いしたかもしれない。いや、そう考えると周防がつきあうのを承諾したのも頷ける。
思いもよらなかった事実に行き当たり、環の頭はパニックで真っ白になっていた。
(どうしよう……男と経験あるとか嘘でも言いたくないんだけど)
とりあえずやれるだけのことはやっておこうという考えに至り、なんとか気持ちを落ち着かせた環は、ネットで必要な知識をありったけ集めることにした。
アダルトグッズの通信販売のサイトでいろいろ購入したところで、ようやく張り詰めていたものから解放された環は肩の力を抜く。
(なにやってんだろ……おれ)
脱力した瞬間、激しい虚無感に襲われる。
こんなのおかしい。なにを真剣に悩んでいるのだろう。こんなのは自分じゃない。こんな自分は知らない。
(バカじゃん。周防はおれを抱きたいなんて一言も言ってないのにさ)
もっと深みに嵌って抜け出せなくなる前に、こんな茶番は早く終わらせるべきだ。
熱に浮かされて霞んでいた現実が、冷静になった頭をガツンと殴りつける。
なにを思い上がっているんだ。所詮は隠れ蓑でしかないくせに。