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□唇のジレンマ
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 ダン、ダン、ダン、バスケットボールが一定のリズムで床を鳴らす。
 いっそ不愉快なくらいに、小気味よいバッシュの音。
 秋の日差しが眩しすぎて、椎名環は色素の薄い瞳を眇めると、目の前で揺れるポニーテールに手を伸ばした。

「ねえ、ヒナちゃん。シュシュ新しく買った?」

 のんびりとした口調。相手に警戒心を抱かせない柔らかい表情。
 全体を覆う雰囲気は、たとえて言うなら蜂蜜のような甘さがある。

 キュッ、ダダン――

(あっ、ポイント入ったのかな?)

 振り返った顔は、意外そうにマスカラの乗った長い睫毛をバサバサと瞬かせた。

「あれ違う? いつものと同じ色だけど、ほら、ラメが入ってる」

「ううん! 昨日買ったばっかなの!」

「やっぱり。ヒナちゃんはオレンジが似合うね」

「気づいてくれたのタマちゃんだけだよ。嬉しいな〜」

 背の低い陽菜子のために少し屈んで顔を寄せてあげると、ちょっとだけ照れたように軽い口づけをよこした。

「ずるい、カホもー」

「あたしもあたしも!」

 環を取り合う三人に、順番に同じようにキスをしてあげる。
 陽菜子と果歩と杏奈の三人は、いかにも遊んでそうな外見をしたギャルだ。放課後はこうして、環を含めた四人でいることが多い。当然部活なんかはしていない。
 通りすがった真面目そうな女子に冷たい侮蔑の眼差しを送られるが、べつに気にしたりしない。いい加減で軽薄で、遊び人だと思われてるだろうが、それも事実だから反論はない。
 校庭からは野球部のものと思われる怒声が響いていた。可愛い女の子たちに囲まれて、ふっ――と虚しくなる瞬間。

(キスは気持ちいいのにな)

 中学生の頃はまだ、キスはもっと神聖なものだったはずだ。
 罰ゲームで透明なアクリル製の下敷き越しにキスをする遊びが流行っていたが、相手が男子だろうと女子だろうとそれだけでドキドキしていた。こんなに軽々しくできるものではなかった。
 もう、その頃抱いていた感情を思い出すことはないのだろうか――。

「タマー、今日どっか遊び行く? オヤいないしうち来てもいいよ」

「ん」

 どうしようかと考えながら、通学用に使ってる自転車を取りに駐輪場に向かう途中、あまり穏やかではない声が体育館の裏のほうから聞こえてきた。

「――じゃあ、別れよっか。私も受験で忙しくなるし」

 最初は女の声しか聞こえなくて電話でもしてるのかと思ったが、低すぎて届かなかった男の頷く声が、わずかに風に乗って運ばれてきた。

(ふーん。あっさり別れちゃうんだ。ま、関係ないけど)

 聞こえたのは環だけではなかったようで、興味津々な顔を隠さない陽菜子の脱色された髪を撫でる。

「向こうから行こう」

 裏から行ったほうが近道だったが、あえて遠回りを選んで指差した。
 えーっと不服そうな顔をされてしまい、環が困っていると、空気を読んだ杏奈が果歩と陽菜子の腕を掴んで引っ張って行ってくれる。
 チラッとだけ後ろを振り返ってみると、今まで死角で見えなかった長身の背中が視界の隅をよぎった。

(あれって……)

 いつの間にかボールやバッシュの音は聞こえなくなっていた。今は休憩中なのか。
 目が合うのを避けるために、環は足早にヒラヒラと揺れる短いスカートを追いかけた。

「今のって三年の来栖先輩だよね? 男バスのマネージャーだった」

「校内一の美人って言われてるよね〜」

 まっすぐの長い黒髪。百七十弱の身長で、スタイルもモデル並みに抜群だ。噂でしか知らないけれど、頭もいいらしいから才色兼備を実体化させた感じだろう。
 そんな来栖美佳子は、清楚で凛としたイメージが強く、男子のほとんどが憧れを抱いているような存在でもある。相手も相手だし、なんだか荒れそうだ。

「相手誰だったんだろ。めっちゃ気になるー」

 環は脳裏に焼きついた背中を思い浮かべる。
 バスケ部唯一の一年生レギュラー。その上、学園のマドンナを落としていたとは驚きだ。
 決して強豪校ではないこの高校には、相応しくないほどの逸材とまで言われている周防和成――あの長身は、三人には見えなかったらしい。
 なにかと目立つ存在ではあるが、硬派なタイプの周防には浮いた噂はないと思っていた。二年で学年の違う環には届いてなかっただけか。

「どうでもいいじゃん。行こう」

「タマもあーゆうの好きなの?」

「おれはあんまタイプじゃないなぁ。なーんか住む世界違うし」

 所詮は他人事。噂話を好まない環にとっては、いくら校内が荒れたってどうでもいいことだ。
 ほんの少し裏側を垣間見てしまったところで、明日にはきっと忘れている。絶対に交わることはないだろう。そう思っていた。



 案の定三日経っても環の生活にはなんの変化もなく、毎日ただなんとなく与えられた時間を潰して過ごしている。

「ふぁ〜……うおっ!」

 三時限目が終了して大きな欠伸をしていると、背後からいきなり抱きつかれて、環はおかしな声を上げてしまった。
 このボヨヨンと背中に跳ね返る感触から察するに、おそらく陽菜子の仕業だろう。

「どしたの?」

 振り返ると、予想した通り陽菜子が首にぶら下がるように抱きついていた。

「あーん。めっちゃ喉乾いた〜。ヒナ干からびちゃう。タマちゃんジュース買い行こ?」

「ん、買ってきてあげるよ。なにがいい?」

「じゃあオレンジジュース」

「オッケー」

 毎度のことであるが、らしすぎるチョイスにはつい笑ってしまう。
 陽菜子は三人の中でも一番子供っぽい性格で、胸だけは立派に成長したみたいだが、身長も低くて妹みたいな存在だ。
 席を立つと、これ見よがしに机を蹴る音が響いた。

「椎名うぜー。女のパシリとか、マジありえねんだけど」

「こらカトちゃーん。モテないからって僻まない僻まない」

 加藤は陽菜子のことが好きみたいだが、残念なことに彼女にはまったく相手にされてなくて、可哀想になってしまう。
 励ます代わりに頬にチュッと唇を当てると、加藤は細い目を限界まで見開いて、絶句してしまった。

「て、てめ……っ! 椎名ぶっ殺す!」

 思い出したように顔を真っ赤にして怒鳴り散らす声を無視して、環は小躍りしながら校内に設置されている自動販売機に向かった。
 
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