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□失恋の音
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「このケース、ちゃんと防水してるし」
「楽器にとって水は敵だからな。気をつけろよ」
ケースの中身はヴァイオリンだ。二人は音楽科に所属している、言わば音楽家のタマゴなのだ。
出会いは二年前。二人の通う高校には音楽科は一クラスしかない。当然ながら同じクラスになった律と春季は、自宅の方向が同じだということもあり、自然と帰りを共にするようになっていた。
すぐに打ち解けて、いつしか二人でいるのが当たり前になるくらいずっと一緒にいる仲なのだ。
「ここだ、ここ」
カフェの前に来ると、律は軽く全身の水気を払う。一方、春季は気にする様子もなく、店内へとさっさと入って行ってしまった。
こんなことでも、二人の性格の違いが窺えた。ずぼらと几帳面の両極端だ。
「律――」
なかなか入って来ない律にじれ、春季が声をかけたところで動きが止まる。
律が何事かと春季を見ると、一人の女性店員に釘づけになって固まっていた。
(えっ……)
嫌な予感がした。律が声をかける間もなく、春季は踵を返して外に出て来てしまった。
「なに?」
「わ、悪い。今日はやっぱりやめよう」
有無を言わせず、挙動不審の春季は赤くなった顔を律から背ける。
嫌な予感――それは当たってしまったかもしれない。
「ちょっと俺、用事思い出したから帰るわ」
「あっ、おい春季!」
引き止める律の声も聞かず、春季は駆け出して行ってしまった。
店内を覗くと、さっき春季が見ていた店員が律に気づき、小さく手を振っていた。
もやもやとした気分を引きずったまま、律は食卓につく。
体調を崩して仕事を辞めた母は現在入院中で、その母に代わり、二つ違いの姉が用意した夕食は律の好物ばかりだ。
「どうしたの? お腹すいてない?」
「いや……」
箸を進められずにいたら、心配そうな顔をした姉に、顔を覗き込まれてしまった。
弟の口から言うのもおかしいが、姉の奏は清楚でかなりの美人だ。
人柄もよく、才能にも恵まれた、誰からも好かれる姉。それは、この家の中でも例外ではない。
「さっ、食べよ」
ダイニングテーブルについて、奏が箸を取る。しなやかな指先。それだけで絵になる。
賀川家は、父親が指揮者、母親が元音楽教師という音楽一家だ。
長女である奏は、大学に通いながらプロのフルート奏者としても活動している。気立てがよく才能溢れる奏を、両親は長男そっちのけで寵愛していた。
そして最近、人望も厚い奏が友人に頼まれて、短期でバイトを始めたと話していた記憶がある。その時は聞き流したが、場所を聞いておけばよかったと、今更後悔しても手遅れだ。
「今日バイト先に来てくれてたけど、よく場所わかったね。でもどうして中に入らなかったの?」
例のカフェのことだ。弟の姿を見つけて手を振っていた店員こそ、姉の奏だったのだ。
「いや、行ったのは偶然だったんだけど、なんか気まずかったら入らなかったんだ」
「やーね。少しはサービスできたのに」
冗談半分で朗らかに笑う奏。誰をも魅了する美しい表情だ。
この顔に、春季は見惚れていた。身動きすらとれなくなっていた。
(最悪だ……)
間違いないだろう。あの時――春季は奏に一目惚れしたのだ。