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□無精髭に一輪の花を
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 馬鹿にされてるような気はしたが、もうそっちを向くつもりは微塵もない。目を合わせてしまったら、またあの泣きたいような気持ちにさせられてしまうから。
 視線を感じる。耳朶が次第に熱くなっていく。なんだか呼吸までおかしくなってきた。
(なんだよ……)
 お決まりの困った顔をしてるだろうか。困ったように髪を掻きあげて、そして慈しむみたいに穏やかに微笑んで、菫を見ているのだろうか。
 そんな顔されたって、こんなオッサンが初恋のお兄ちゃんだなんて絶対に認めてなんかやらないと、菫は顔を背けて頑なに口を閉ざし続けた。



「どうしちゃったのよ? 荘兄ちゃんのお嫁さんになるんだーって、熱烈な作文書くほど好きだったじゃない」
 汚いオッサンがいなくなると、母は困り顔で諭すように尋ねてくる。
 躾に厳しい母が、あんな態度をとって怒らないでいるほうが珍しい。一応、菫の心境を察してはくれてるようだ。
「荘司君がいなくなってからは、しばらくふさぎ込んでたし」
 それでも菫は口を噤んだまま、なにも答えようとしない。
 消してしまいたい記憶というか、消えてしまいたくなるような過去を持ち出され、気まずそうに正露丸を噛み潰したような苦い顔をするだけだ。
 嘘大げさ紛らわしくない過去だからこそ、反論もできなければ誤魔化すこともできないってもんだ。それに今触れられるのは、非常に困る。
「昔は昔じゃん。それよりママ、店はいいの?」
「あっ、そうだった。誰もいないんだったわ」
「早く戻りなよ」
 もうこの話は終わりだと、菫は母親を仕事に戻るように促した。
「まさかあんなオッサンになってるとは思わなかったけど……」
 慌ただしくエプロンを身に着ける母親を見送りながら、そうつぶやく菫の瞳はつまらなそうに細められる。
 本当に心の奥底からがっかりした。初恋の思い出は、綺麗なまま胸の奥にある宝箱にしまっておきたかったのに。
 そんな想いすら粉々にぶち壊されたみたいで、だからあんな態度をとってしまったのだ。
 今まで松島宅に居座っていた、ボサボサヘアーで無精髭を生やした汚いオッサン――もとい篠原荘司は、言わば菫の幼なじみだ。花屋の隣のお洒落な洋風の一軒家、篠原さんちの長男が荘司だった。
 菫には三つ上の兄がいるが、実の兄は意地が悪く乱暴者。幼い頃は無駄に横幅だけ広く、近所でもある意味有名なガキ大将だった。そんな兄には物心ついた時から薄ら寒い嫌悪感しかなく、隣の家に住む十歳離れた優しくて面倒見のいいお兄ちゃんを本当の兄のように慕っていたのだ。
 いつもべったりと張りついて、片時も傍を離れたくないと思っていたのは、六年前までの話。
 まあオッサンと言っても、荘司はまだ三十路前なのだが、十代の菫からしたらオッサン以外の何者でもない。確かに昔はかっこよかったが、今は見る影もないほどの変貌ぶりだ。
 六年前までの荘司は本当にかっこよかった。背が高くて、優しくて、頭もいいし、スポーツもなんでもできた。菫が意地悪な兄にいじめられてる時は吹っ飛んで来て、いつも助けてくれた。荘司は菫のヒーローだった。
 思い出せばやるせなさが募り、菫は無意識にイライラと爪を噛む。幼い頃からの悪い癖だ。
『スミの桜貝のような可愛い爪が痛むのを見るのは嫌だな』
 荘司が傍にいる時は出なかったはずの癖は、未だ治らず菫の爪に傷をつけていく。
 ガリッ――と嫌な音がした。指の先にわずかに血が滲む。やりすぎだ。
 ますます苛立ちが募って、菫は乱暴に椅子を鳴らして立ち上がった。
「……いっ!」
 そしたら今度は足の小指をぶつけて、声も出せず蹲る。
 普段はたいして意識してない場所のくせに、ちょこっとぶつけただけでなんでこんな痛いんだろう。腹立たしくてしょうがない。
「チッ、あの汚いオッサンは疫病神か……」
 可哀相な自分に涙を浮かべて、菫はその顔には似合わない口調で悪態をつく。普段はボケーッとしてる菫が、意地悪な兄のこと意外でこんなに苛つくこと自体がまれなのだ。
 けれど汚く罵った後でさえ、大好きだった荘司の姿は菫の頭の中から消えてはくれなかった。今の姿に、過去の姿を重ねることができなかったとしても。





「お〜ま〜え〜は! 本当にもったいないことをしたんだぞ!」
 大学に着いた途端に友人から放たれた台詞がそれで、菫は不機嫌丸出しでむくれる。
 昨日のコンパのことを言ってるんだろうということは容易に想像ができたが、そんなの知ったこっちゃない。
 小学生からの付き合いのある友人は、高校の時にコンパの帝王という恥ずかしい異名を授かったことを誇りに思っているのだ。こんな憐れな友人しかいない、人見知りの激しい自分が時々嫌になる。
「俺の幹事人生最大にして最高の女の子のレベルの高さだったのになー」
「で、英輔は彼女できたの?」
「んー、ゴホン。俺は幹事に人生賭けてんの。彼女できたらコンパできなくなるだろ」
 本気なんだか見栄なんだかは判別できないが、どっちでもいいと英輔の言葉に適当に頷く。
 というより、さほど興味もない。コンパ、コンパって、なにがそんなに楽しいのかまったく理解できなかった。
 時々付き合いで参加してはいるが、彼女ができるわけでもないのに行く理由があるのかと、毎度お約束のように思ってしまうのだ。
 
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