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□彼の背中
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 新学期そうそう寝坊した。
 普段は早起きの皓だったが、橘のことを考えてたら眠れなくなってしまったのだ。

(ああ、もう……忘れ物ないよな?)

 急ぎならカバンの中身を確認して、皓は不意に立ち止まってしまう。
 満開の桜に目を奪われて、動けなくなる。そこに重なった幻影に、顔を歪ませる。
 胸が、抉られたように痛い。



 皓が橘への恋心に気づいたのは、去年の春先だった。橘に想いを告げられてから、およそ一ヶ月後。
 卒業した中学の校舎を外から眺め、花を咲かせた桜の木に気づいた時、皓の瞳から涙がとめどなく溢れてきた。
 橘と過ごした思い出が次々に甦ってくる。ずっと一番近くにいた存在。
 だけど、今の皓は一人だった。橘は、もう傍にはいない。その現実が、今になって襲いかかってくる。
 どうしてこんなに悲しいのかと考えたら、答えは呆気ないほど簡単に出た。

(俺も……本当は好きだったんだ)

 近すぎて、自分が幼すぎて気づけなかった。
 だけど、現にこうして胸を痛ませているのは、橘への恋心以外のなにものでもない。

(でも、もう遅い……)

 立ち去って行く橘の背中が目に焼きついてる。皓を拒む広い背中。
 今更気づいても手遅れなのだと、桜の花びら舞う中で、皓は自分のこの想いは封印してしまおうと誓った。
 そんな皓を助けるかのように、高校に入ってから橘と同じクラスになることはなかった。
 そして、今年も。
 安堵したのは事実。だけど、同時に残念に思う気持ちがあったのも否めない。



「――あっ」

 昇降口に見覚えのある広い背中を見つけて、皓は驚いて目を見開く。
 その眼差しに導かれるように、背中の持ち主はけだるげにゆっくり振り返った。

「皓?」

 その声がこの名を呼ぶのも、実に一年ぶり。
 皓の胸には、喜びに似た切なさが込み上げてくる。

「おはよ、遅刻だよ」

「お互い様だろ。でも珍しいな、皓が遅刻すんなんて」

「けん……橘は、いつも遅刻だもんな」

 普通に話せてる自分に驚いた。
 けれど、以前のように“けんちゃん”と呼ぶことは躊躇われて、よそよそしい態度になってしまった気がする。
 わずかに橘の眉間に皺が寄せられる。そのことに皓は気づかない。

「じゃっ、先行くな」

 たとえ普通に話せたとしても、それは前とはまったく別のもの。皓を優しく見守る瞳は――もうない。
 それに耐えきれず、皓は橘に背を向ける。

(昔はあんなに仲がよかっただなんて、誰が信じる?)

 その名残さえ、一年前の桜の花びらの中に取り残してきてしまった。
 二人を繋ぐものは、もうなにもないのだ。
 




「おっはよーっ!」

「――うわっ!」

 そーっと教室に入ろうとしていたら、後ろから背中を押されて、皓は思いっきり声を上げてしまった。
 慌てて教室の中を見渡すが、まだ教師は来ていないようだ。
 それをいいことに、皆好き勝手に騒いでいる。

「ごめん、驚いた? 今年も同じクラスだな」

「……吉野」

 親しげに肩をくんでくるのは、皓の去年からのクラスメートだ。
 タッパの違いはあるけど、身長は橘と同じくらい高い。
 その頭いっこ分離れた吉野の顔を、皓は恨めしげに見上げた。

「重い。それより、先生来てたらどうすんだよ」

「あっ? 悪い悪い。でも大丈夫。会議長引いてるって、情報入ってたから」

「ああ、そうですか」

 ため息をついて教室内を見渡すと、吉野の共犯らしき男子が、ヒラヒラと手を振っていた。
 口パクで、「学食おごれ」と言っている。
 そして男子も女子も関係なく、何人ものクラスメートが次々と吉野に声をかける。

「相変わらず、人気者だな。一緒にいる俺まで視線が痛いよ」

「なにそれ、イヤミ?」

「まさか」

 皓は本心だと首をすくめて、吉野に笑顔を向ける。
 しかしクラスメートたちの羨望の眼差しは、皓ではなく吉野に向けられていた。
 
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