ダーリン

□振り向いてダーリン
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 怖い怖いと思ってたせいで、今までちゃんとその顔も認識していなかった。本当はこんなにも穏やかに話す人なのに。
 なにも知らないくせにそんな態度でいたことが申し訳なく、そんな自分はかなり失礼だったと気づいて、裕は今になって反省する。
「あっ、あの……だ、大丈夫です……ありがとうございます」
「そう、それならよかった。生徒手帳出してくれる?」
 裕が無事なことを確認すると、そう言って手を差し出してくる。
「はい……すみませんでした」
 裕はおどおどしながらも、素直に生徒手帳を取り出して、先輩に手渡した。
 確か、遅刻一回で生徒手帳にイエローシールが一枚貼られるのだ。三枚貯まったら、もれなくレッドシール一枚――欠席扱いにされてしまう。
「あれは事故です。先生も会長も見ていましたよね?」
「あ、ああ」
「事故って言うより自爆よね。あんなアニメみたいな転び方初めて見たわよ」
 判決を言い渡される被告人のように、シールを貼られるのを待っていた裕だったが、その時はなかなか訪れずに、なぜか話は別の方向へ逸れていく。
「とにかく、今日はお咎めなしということで。手や顔にすり傷もあるし、このまま保健室に行ってもらいます」
 生徒手帳にサラサラとなにか書き込み、手帳はすぐに裕の手元に返される。それを見ると、養護教諭に宛てられた言葉が書き記されていた。
「夏目ユウ君? 一人で保健室まで行ける?」
「え、あ、ヒロムです。大丈夫です」
「そっか、じゃあ夏目君気をつけて。明日からはもう少し余裕を持って登校しようね」
 なにが起きたのかわからなかった裕は、ようやく先輩が自分を庇ってくれたのだと知った。
「甘いわね、室井君」
「会長みたいに冷酷にはなれませんって」
「やだ、それどういう意味よー」
 お礼を言いたかったけれど、仲睦まじく話す二人の間に入って行くことはできず、裕はただただ憧憬の眼差しを送るだけだった。
(室井先輩か……)
 怖いって噂は噂でしかなかったようだ。むしろ優しくてかっこいい。憧れてしまう。
 一瞬だけ振り返って裕を見てくれた室井は、悪戯っぽく微笑んでウインクをよこした。
 あの頃から、柏木と室井の間には特別な雰囲気が存在していた。生徒会長にも、柏木が直接室井を指名したらしい。
 付き合ってると考えるのが普通かもしれない。なんと言っても、すごいお似合いなのだ。
 熱烈な室井ファンになった裕には、到底受け入れられる事実ではなかったけれど。



(どうせ噂なんて信用できないもんな……噂は噂だ)
 ベストの腹の部分にパンを隠して、裕はブツブツと独り言を言いながら校内の廊下を疾走していた。横取りされないように、隠れて食べるつもりなのである。
 パンを独り占めできるというのに、気持ちが晴れないのはさっき聞いた噂のせいだ。
「――うわっ!」
 足はお気に入りの場所である校舎の裏に向かっているのに、注意力が散漫になりすぎて、突如目の前に現れた壁に激突してしまった。
「いたたた……」
 パンを庇ったせいでぶつけたおでこをさすりながら、裕はあれっ?と首を傾げる。壁から伸びてきた腕が、裕が転ばないようにと腰を支えてくれているのだ。


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