ダーリン

□振り向いてダーリン
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 そしてあの薄く整った唇で、一言だけでいいからなにか言葉を紡いでくれたら……。
 だから――。
(お願い……ちょっとでいいからこっち見て!)
 裕は強く念じて、両手を握りしめる。こっちを見て笑ってくれたら、きっと今日一日がハッピーだ。
「――っ」
 その強い想いというか怨念が通じたのか、室井はなにかに呼ばれたように、裕のクラスを仰ぎ見た。
 裕が息を呑んで全身を硬直させていると、眼鏡越しの綺麗な瞳と視線が絡み合う。
 髪を掻き上げる長い指が動きを止め、一瞬見開かれた双眸が裕を捉えて眩しそうに眇められる。同時に、口許が柔らかく綻んだような気がした。
(やばっ……マジで鼻血出そ!)
 どうして、室井はこんなにもかっこいいのだろう。ただの気のせいだったかもしれないが、それでも裕は幸せな気分でいっぱいになった。
 一般的に言うならば、これは恋と言うものだ。しかし、まだ子供の裕にはこの感情の意味がわかっていなかった。
 夏目裕、16歳。
 自覚はないが、只今恋の回し車を爆走中。走っても走っても終わりはないけれど、それでも、躓いても、走り続けて止まるつもりはなかった。
 


 裕が室井と初めて出会ったのは、入学して間もなくのことだった。
 ようやく生活に馴染み始めて気が緩んでしまったのか、元からだらしないからか、裕は入学数日目にして早速遅刻しそうになっていた。
(どうしよう……風紀委員の先輩マジで怖いって噂なのに!)
 校門には、生徒指導の教師と、生徒会役員、風紀委員が登校してくる生徒を待ち構えている。
 当時風紀委員をしていた室井は、一年からは恐れられる存在だった。
 大量の汗を流し、裕は息を切らして走る。ゴールである校門は見えているのに、数メートル前で無情にもチャイムが鳴り始めてしまう。
(もう少し……っ!)
 ぎりぎり間に合うかどうかの瀬戸際だったのだが、しかし、後一歩のところで小石に躓いた裕の身体は投げ出され、宙に浮いていた。
「うわっ!」
 ズサササ――。
 ヘッドスライディングでゴーーール!
 ということにはならずに、校門の目の前で派手に転んだ裕を嘲笑うかのように、鳴り響いていたチャイムの音は終わりを告げた。
「残念だったなぁ。頑張ったけど遅刻だ。アハハハ」
 強面の教師が顔を崩して大笑いしている。今日当番だったらしい美人生徒会長も、腹を抱えて目には涙を浮かべて笑っていた。
(し、しどい……)
 泣きたいのはこっちのほうだ。いや、むしろもう泣いている。
「先生」
 じんわりと涙が滲み、うつむいて裕が唇を噛みしめていると、そこに咎めるような鋭い声。噂の鬼の風紀委員だ。笑いごとじゃない。下手こいたら、殺されるかもしれない。
「ヒッ……!」
 殴られる――差し伸べられた手に、全身がピシッと凍りつく。
「大丈夫かな? 怪我はない?」
 しかしその声は予想外に優しく、大きく力強い手が裕を抱き起こしてくれた。
 裕は涙を引っ込めて、キョトンとその主の顔を見つめる。長身に見下ろされる圧迫感はあるけれど、最初に感じた恐怖感はもうどこにもない。
(あっ……)
 厳しくて怖いと噂の先輩だったが、裕を見つめる眼鏡の奥の眼差しは優しい。整った顔に、ポッと頬が染まるのがわかった。


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