第一部
□Act.1
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八月も終わりが近づき、もうすぐ二学期が始まるころだった。
生徒たちは補充授業で登校しており、夏休みとは思えないほど校舎の中は活気にあふれていた。授業は全部で三限。正午には下校する予定である。神楽屋息吹(かぐらやいぶき)のいる二年A組は窓全開に理科室で授業を受けていた。
その部屋から見える、使われなくなった古びた校舎。今はただのボロ屋にしか見えないが、何十年前は確かに生徒がいて、にぎやかだったに違いない。現在はお化け屋敷と言われ、子どもたちの間では肝試しに使われるらしいが、行った彼らは口々に言った。「本当に幽霊が出た」と。
その話の真偽はともかく、息吹は授業中にぼんやりとその校舎を眺めていた。二車線道路を挟んでたたずんでいるその校舎を。そして、違和感を覚えた。
長い年月が経って立てつけの悪くなった旧校舎は入学式当時、危ないから絶対に入るなと、教師から言われていた。事実、怪我をして病院に運ばれた子どももいる。好奇心で訪れる子どもはいるだろうが、教師は――そもそも大人は怯えてその校舎に近づきさえしないのだ。
だから人がいるはずなどないのだが、一つの教室に確かにいる。
「待って――」
髪の長い女だ。女はゆらゆらと揺れながら前進していた。その先には逃げ惑う男が一人。二人は同じくらいの歳のように見える。女は三日月のように口を歪ませて笑った。不気味に、楽しそうに。振り上げた左手の中に何かが握られている。
息吹は蒼白になった。光に反射するそれはおそらく、刃物。それまで机に肘をついて手の平に顎を乗せていた息吹は唐突に立ち上がった。
周りのクラスメイトが何事だと息吹を見やる。
「神楽屋?」
隣にいた波止場風(はとばかぜ)が、いぶかしげに名を呼んだ。
息吹は理科室の窓辺まで走り、旧校舎に向かって叫ぶ。
「ダメ!」
自分の背よりも格段に大きい窓から体を乗り出し、その近くにいたクラスメイトの何人かは旧校舎の異変に気が付いた。
「やだ」
早乙女明日香(さおとめあすか)が顔を真っ青にして、両手で口を覆った。それから目の前で――何人かの生徒と、息吹を注意しに窓辺に近寄っていた理科教師は目撃してしまった。
人が殺される、その瞬間を。
振り下ろした女の刃物は、窓側に追い詰められた男の胸に突き立った。引き抜いた反動で返り血が女に飛び散る。
悲鳴に覆われる理科室。
見ていた何人かは嗚咽をもらし、後ずさった。理科室は混乱の渦に巻かれていたが、息吹だけは教室を飛び出していた。仕方なく波止場が息吹を追いかける。理科教師はこれ以上見させまいとカーテンを引いた。
窓辺に座っていた天軽加央(てんけいかお)はカーテンの隙間から見えた旧校舎に、目を見開いた。
「神楽屋! 待てって、犯人が中にいるなら危ないだろ!」
「悠長なこと言ってらんないでしょ。襲ってきた時はぶっ飛ばす!」
「――死ぬ気かよ」
二人は閉鎖されている門扉を飛び越え、荒れ放題な旧校舎のグラウンドに降り立つと、駆け出した。
それほど広くないグラウンドを横切って、旧校舎に入った息吹と風は、かび臭いにおいに一瞬顔をしかめた。
「どこだった?」
「やめろって」
「理科室が見えるところは――」
「神楽屋!」
どんなに注意しても、息吹は波止場の言葉を聞き入れなかった。仕方がないと波止場はため息を漏らす。いざとなったら、何が何でも息吹を連れて逃げよう。そう誓って息吹の後ろを歩いた。
頼りない旧校舎の廊下はぎしぎしと音を立てる。