小話(61〜80)

忘れの河
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ざばざばざばと、
抜き手も見事に、坂本がクロールで泳いでくる。

何で普通に来れねーんだアイツは。
と、河原に座った葛西は溜め息をつき、親友が岸に着くのを待った。

「よ!葛西、お待たせ」

息も切らせず河から上がり、坂本はびしゃびしゃと足音を立てて葛西に近付いた。

「何が、よ!だ、このバカ」

ぼやきながら、葛西が当たり前のように坂本を引き寄せようとしたので、坂本はすっと身を引いた。

「…ツレないねェ」
自分のためと分かっていても、恨み言が葛西の口をつく。

「じゃァ、一箇所だけ」

触れていいよ。

うつ向いて隣に座る坂本にそう言われ、葛西は早速とばかり、坂本の頬に手を伸ばしたが、寸前で、止めた。

首を、肩を通過して、爪ならばと彷徨った手は、結局、後ろ髪の先をつまんだ。

何だそれ、と坂本が笑う。

「うるせェ、文句あんのかよ」
「ねェよ」
「髪の先まで冷てェな」
「まだ春先だし」

坂本は、頭の先からつま先まで冷え冷えである。
春先の冷たい河を、勢いよく泳いでくるのだから当然だ。

遥か彼岸から。

春と秋の彼岸に、何も残らない再会を、彼らは夢で繰り返す。
記憶も体温も残せない、忘れの河の夢の岸。

ふたりが座る後ろには、大きな桜の木が立っているが、どの蕾もまだ固く、一斉に咲く約束の律儀さで、風に揺れている。

そこより少し下流側に立つ桜になると満開で、更に先には菖蒲が、紫陽花が、向日葵が咲いている。

河の流れにつれて、河原の季節は移ってゆき、遠く遠く下流、うす黄緑の銀杏の木の立つ辺り、ぼうと彼岸花の赤が揺れる辺りが、次にふたりが会える場所。

その時、季節を追う水温は、今より少し緩んでいるが、やはり泳ぐには冷たい。

ただ、どんなに坂本が、河で体を冷やしても、葛西が無意識に触れてしまっては、
水の冷たさとは違う、血の通わない坂本の体の冷たさに、うかつに触れてしまっては、

葛西は悲しくなって、きっと泣くだろう。

お互いにそれはもう分かっているのに。

それなのに、うっかりで手を伸ばしてはダメだろう、お前は本当に手の早いバカだ、と、坂本は困ったように笑う。

「お前こそ、普通こーゆー時ァ、舟で渡ってくんじゃねーの?」
坂本の髪に触れたまま、葛西が負けじと言い返した。

「そんなのダメだ、やっぱ再会は劇的でねーと」
「いやもう劇的過ぎて、もはや刺激的なんですけど。
相変わらずバカだなお前、基本スペックが不憫過ぎるわ」
「そこは忘れてヨ」
「そりゃ無理だ」

葛西は生きているので、此処での事は、此処に来た時しか思い出せない。
が、変わらないものは忘れようがないから、半年毎に坂本の泳ぎっぷりを見せつけられては、改めてガクーとしている。


坂本はずっと覚えている。

この彼岸の逢瀬の時以外は、独りで、覚えている。

ふたりの思い出を、独りで覚えている。
それは、どれほどの孤独だろう。

自分達が、それを『負わせる者』と『負う者』に別れるのだと気付いた時は、互いの傷を思い、互いに苦しんだ。

それでも、ふたりが会おうと決めた時に、ただ会いたい、会いたい、という激しさは、
いられるだけは、隣にいよう、
そういう、静かな覚悟に変わった。

あってもなくても変わらないような数時間を過ごし、時間が来れば別れるだけでも。

それは、

あってもなくても変わらない日なんて本当は無い、一日だって無いんだと、もう、ふたりは知っているから、
大切な時間を、日常のように過ごし、そして別れられるのだ。


「お前、たまにァ、忘れない方の夢にも来てくれよ」
くちびるをとがらせ、坂本の髪を捻りながら、葛西が言う。

「…分かった、いいよ、いつかな」
坂本は、凪いだ目で笑って応えた。


ーーーいつか。


坂本は嘘をつかないので、この約束は必ず果たされるのだろう。

それでも別れ際に、葛西はどうしても言ってしまうのだが。


よーし!
と、坂本は気合いを入れて河に飛び込み、ざばざばざばとバタフライで渡ってゆく。

忘れの河の水を、葛西に盛大に浴びせて。

みるみる遠くなる姿を見送り、葛西は、水に濡れた情けない髪型のまま河原に寝転んだ。

…眠ィ。

向こうで目覚める用意が整っているのだ。

細めた目で、少し下流側を眺めると、菖蒲と紫陽花の中間、淡く立ち上がった虹の辺りに鳥が飛んでいる。

飛びながら、ツィー、と鳴いたアレは。

あれは、葛西と坂本が出会った季節の鳥。

あぁ、燕はあんなに美しい鳥だっただろうか、と、葛西は思った。

髪を濡らした水が、まぶたの隙間から染み込み、葛西は目を閉じる。

そして眠り、彼岸の夢を忘れた。


ーーー忘れの河ーーー



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