小話(1〜20)
□いつか青春になる
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「坂本、ちょっといいか」
昼休みに教室で俺が声をかけると、本人より先に両隣のグラサンとモヒカンが、怪訝そうな反応をしたが、無視した。
もっとも、もう一人の男が自主休校せずに登校していたら、今日もあきらめただろう。
「いーよ、何?」
坂本が言うのを聞いて
「ああ、ちょっと」
俺は背を向けて歩き出した。
背後で椅子を引く音が聞こえたので、そのまま廊下へ出た。
後ろに続く足音に違和感を感じ、振り向いて
「悪い、足ケガしてたのか」
謝ると
「たいしたことねーよ、気にすんな」
坂本は、少し慌てたように小声で言った。その時、困ったように一瞬、生徒の散らばる廊下を気にしたのは、その辺にいるかもしれないヤツのために、負った傷だからなんだろう。
少し歩調を緩めて、美術室に向かった。
日当たりの悪いその部屋に入り、
「専門学校受けるのに必要なんだ。人物画の練習のモデルになってくれないか。バイトのない日だけでいい」
と頼んだ。
「脱ぐのか?」
大真面目に返した坂本に、思わず笑ってしまった。
笑いながら自分が、たかがクラスメートにモデルを頼むのに、ひどく緊張していたことに気付いた。
素行は最低だったが、俺は絵を描くのは昔から好きだった。
正道館に入学したばかりの頃。サボりに使おうとしていた美術室で上級生に絡まれた時、俺は見ていた画集で先輩を殴り倒し、挙句
「よくもゴッホで殴らせやがって!」
捨て台詞を吐き、ゴッホボッコボコ事件の勝者として三年間、集団に属することもなく、サボり用に美術室を独占することに成功している。
三年間、坂本とは同じクラスだ。
笑いの沸点が相当低い坂本は、席が近い時など、俺の落書きした教師の似顔絵を見ても、お前うまいなーと言って、笑った。
二日後、
「机ん上に座って正面向いてくれりゃ、あとはテキトーでいい」
頼みを引き受けてくれた坂本に言うと、分かった、と受けて坂本が俺の方を向く。
他愛のないことを話したり、時々角度を変えてもらいながら、何枚かスケッチして、坂本を帰らせると、
全て、破り捨てた。
そんなことを何度も繰り返した。
リミットは決めていた。あの男が干渉に来るまで。それが考えていたよりもずっと早くてビビった。次に可笑しくなった。
坂本がバイトの日の放課後は、一人で静物を描いていた。何の感情もなく無機的に手を動かす。淡々とした時間に没頭した。
「てめー、どんだけ大作描く気だ」
不機嫌な低い声。同級生と呼ぶにはあまりに遠い存在の、この学校の頭が俺の左背後に立っていた。やっぱ怖ぇな、この人。
「…さぁ」
声が掠れた。
舌打ちが聞こえてから、
「…練習になってねーんじゃねぇかって、あいつが気にしてる」
え!?と、思わず振り返る。
「いつまでやんだって訊いても、まだ少しかかるとしか言わねェ」
坂本はだが一度だけ、なんか辛そうに描いてるんだ練習になってんのかな、そう言ったと葛西さんが言った。
カッと顔が熱くなった。俺は立ち上がり、美術室を出ようとしたところで、
「図星指されて逆切れして逃げんじゃねェよ」
図星の追い討ちをくらって止まってしまった。
普通に談笑しながら描いてた。全部捨てたなんて素振り、俺はしていない。でも坂本は何か気付いている!その羞恥は激しい怒りにすり変わった。
「はッ!あいつもホント甘ェな、無駄な時間潰しに黙ーーって付き合ってくれちゃってよ!そーだよ、あんな絵全部捨ててんだよ!」
言い捨てて、ヤバい、俺、殺されたわ、と思ったが、葛西さんは動かなかった。
再び舌打ちをして目を背けると、更に低い声で葛西さんは、
「てめェが苦しんでるからだろ」
実に忌々しそうに言った。
苦しんでる?俺が?
「てめーが苦しんでるって、あいつのバカ脳が判断したから、バカ脳なりに考えてそーゆー行動をしてんだろーがよ。あいつ絶対ェ脳みそワタパチで出来てんだよ。ふわふわに見えてやること無茶ばっかだ、たまんねーよ」
後半、もはや俺など視界にない口ぶりで葛西さんが言う。
苦しんでいた葛西さんのためにやらかした、坂本の無茶のことを言っているようにしか聞こえない。
どうせ、さっきの図星うんぬんだって自分の経験談なんだ。
…聞いてられねェ。
「…葛西さん」
「本当は完成してるんすよ。もうずっと前に」
俺はカートの中から一枚の絵を出して、葛西さんに見せた。
ーーー夕暮れの教室の。
窓際の、一番後ろの机の上に坂本が座って外を眺めている、その絵を見て、葛西さんは少し眩しい顔をした。
「親友を待つ級友」
我ながら変な題名だとは思う。
舎弟でもない俺は、一連の四天王狩りの話を、多分表面しか知らない。
ただ、春の終わり頃から坂本と葛西さんは、別行動を取ることが多くなった。
舎弟を連れて葛西さんが学校を途中で抜けた日の放課後、付いて行かなかった坂本は、こうして外を眺めながら待っていた。
ひっそりと耳打ちしに来た奴に付いていく日もあったが、よくこうして、葛西さんを待っていた。
その静かな坂本の横顔を見ていて何度目かに、俺は、ふっと思った。
机の上に座るあれは、坂本の形をした坂本の心そのものなのかもしれない。かすかな猫背がとても優しかった。
葛西さんが戻った日があったのか、俺は知らない。
ただ少しずつ目に焼き付けて、少しずつこの絵を描き上げた。
その後坂本にモデルを頼んだのは、正面から対峙した絵を描きたかったからだ。その表情を。
でも、違った。向かい合った坂本は、あの時の顔じゃなかった。それが苦しくて絵を捨てた。
バカなことした。
坂本は、俺を見る顔で俺を見てくれていたのに。
俺がぽつぽつと話す間、葛西さんはずっと絵の中の坂本の横顔を見ていた。そして
「この絵、どーするつもりだ」と、訊いた。
「…どうもしませんよ。ここに残します」
「そうかよ」
視線は絵に向けたまま、葛西さんが笑んだ。
「そうだな。どれだけ代が代わっても、この絵を傷付けようとする奴は、いねェだろうな」
そう言われて不覚にも、まぶたが熱くなった。
「…あのー、この絵のこと、坂本には言わないで下さいよ」
「言うかよ、っつーか、今日オレがてめェんとこ来たことが、坂本にバレたら殺す」
それは御免だ命は大事。俺ががくがく頷いたのを見て、鼻を鳴らして葛西さんは帰っていった。
だいたい思うに、あと少し時間をかければ、俺だって自分で色々気付けた(はずだ)。それを葛西さんが、痺れを切らすのが異常に早かったんじゃないか。負け惜しみじゃねーけど。
俺は、自分を見る坂本を、今度こそ描こうと決めた。その絵は、それだけは俺が持っていよう。
多分「級友」と名付けるその絵が、ずっとずっと後に自分の中でどう名が変わるのか、予感しながら。
ーーーいつか青春になるーーー