小話(1〜20)

ひかるさかな
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「何?なんか付いてるか?」

くちびるをとがらせた坂本が、そう言って右手で自分の左頬をこすったのは、左手は葛西の右手とつないでいたからだ。

「別に。なんでもねーよ」
葛西はぶっきらぼうに言って、坂本から巨大なアクリル水槽に視線を戻した。

水族館には、ふたりで何度も来た。

時々、手をつないだ。

坂本に回遊魚に例えられた時、あまりに図星で葛西は本当に驚いた。

葛西は、自分も坂本を魚に例えてみたかった。自分も坂本をよーく見ている、だから誰よりも理解できるのだと感動して欲しくて。出来ればふたりに似た魚がいい。同じ海を泳ぎたかったから。

青い回廊を歩きながら、でも葛西には、隣につながって歩く坂本を、うまく例えられずに、あの頃は過ぎた。

それなのに今頃。

夜8時のJR車内。
左隣の見ず知らずのおっさんが、葛西から顔を背けるようにひねって
「あ、飛行船」
とつぶやいたので、つられた葛西は、自然、そのおっさんの方へ首をひねって背後の車窓を見る形になった。

夜空にぽつんと橙に光る楕円が浮いている。

静かに止まっているようだった光は、少しずつ大きくなり、尾翼の形まで分かる頃には、電車に並走しているように見えた。

線香花火の最後の火玉が押されたような姿で、ぽってりと静かに夜空を泳ぐ、

飛行船。

あたたかい曲線の光ににじんだ優しい空のさかな。

似ているな。

これが坂本の魚だったのかもしれないと葛西は思った。

明日、世界が壊れるような悲しみに襲われても、今日までの幸せな記憶があれば必ず立ち直れる。生きてゆける。

そういうことを、坂本が言ったことがあった。

世界が壊れるような悲しみを、葛西に与えたのは坂本だったが、そこから葛西を生かしたのも、坂本を失う前日までの彼との思い出だった。

坂本の言うことは痛いくらいに本当のことばかりだ。あいつはそういう子…。

子。

そう回想した自分に葛西は驚いた。確かに話した日々のふたりは、子供だった。

水族館でつないだ時と、手の大きさは変わらなくても、葛西はもう子供ではない。

飛行船と電車が、離れていく。
近付く時と同じくらいにゆっくりと。

葛西は正面に向き直って、目を閉じた。
今夜見たい夢ができた。でも見られなくてもかまわない。

いつか。
いつか会うだろう。
空で会うだろう。


ーーーひかるさかなーーー




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