小話(101〜110)

ちりり、ちりりん
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「うっわ!坂本くん!?どうしたの!?」
「すんませんマスター、奥、借ります」

その時、池袋のコーヒーハウス・コアは、閉店時刻ギリギリだった。

店に入るなり、早足でカウンター奥の、事務所兼休憩スペースに駆け込む青い制服の背中を見て、マスターは悲鳴に近い声を上げた。

正確には、背中ではなく、顔の左半分を押さえた坂本の、左手を染めている血の赤を見て驚いたのである。

ちょうど、本日最後の客に釣りを渡していたマスターは、怪訝そうな顔の客をせっかちに送り出すと、表の扉の札を『準備中』側に返し、行灯看板のライトを切った。

「入るよ?坂本くん大丈夫!?」
店内に戻り事務スペースを覗くと、ソファに腰かけた坂本は、薬箱の中身を散らかしながら、手当てをしている最中だった。

「おしぼり、どんどん使っていいのに」
既にほとんど乾いている血は、ティッシュでは上手く拭えず、坂本の顔面と左手は血だらけ状態のままである。

「…すんません」

マスターがストックのおしぼりを何本か渡すと、坂本は小さく頭を下げてから、顔と手を拭き始めた。

「ケガは目の上だけ?」
「位置が悪くて」

頷きながら、坂本が唇を尖らせた。

彼は今日、仲間たちとコアには来ていなかったから、今、バイトの帰りなのだろう。

ひと言目に「どうしたの」と訊いたマスターだが、思い当たる節などひとつしかない。

「…ちなみに相手は?」
思わず突っ込んだ質問になったが、坂本は気にする風でもなく、少し首を傾げてから答えた。

「見たことねェ奴らっスよ。
救急車は呼んでやったけど、何台回してもらえたかまでは、知らねー」
「うわぁ訊かなきゃ良かった!
刃物+複数相手でその結末だったの!?」

左目の上、数センチ程の、もう出血の止まった坂本の傷を見ながら、マスターは唸った。

や、まァ、この青い学ランを着てるって事が、どういう事なのかは今更なんだけど。

ましてや坂本は、正道館の頭である葛西の親友にして、ナンバー2である。
穏やかそうなナリからは、そう見えなくとも。

と、その穏やかな目が、困ったように自分を伺っているのに気付いた。

「?何?」
「…刃ァかすっただけだから平気とは思うんスけど…、コレ、腫れてねーかな、もう、腫れねーかな」

坂本は早口でぼそぼそっと言って、途方に暮れたようにため息をついた。

「…こんなんじゃ帰れねェし、でも、腫れ始める前には戻りてェと思って、つい、店…すんません」
「あ、あぁ、いいよ。しっかり傷押さえててくれたみたいだから、床も汚れてないし」

坂本からは、出来る限りまともなツラで、速やかに帰りたがっている事がだだもれで、それに気付いたマスターは笑いを堪えた。

坂本くん、独り暮らしだよね?ゆっくり手当てしてけば?などと言うのは野暮である。
休日のモーニングサービスにもちょいちょい顔を出す、親友コンビの片割れを前にして。

「オレが絆創膏貼るから、傷口ぴったり合わせて、少し下向いてくれる?」

マスターが坂本の顎に手を当てて、そっと押すように下げると坂本は素直にうつ向いた。
そのまま自分で傷口を押さえて、手当てしやすいように目を閉じる。

しっかりと傷をふさいでやりながら、
他の正道館生は、こんなマネ、させないだろうなぁ、あ、まず、オレがしたくなんねェわな。
と、マスターは、坂本の無防備な仕草に、ちょっと調子に乗ってみた。

「うん、腫れも無いし、これなら、『ちょっとバカに絡まれて適当に相手した』、程度に見えるよ」
「!」
「少なくとも、『葛西くんへの意趣返しで囲まれたから、返り討ちにしてやった』、なんて全然分からないね」
「!!」

すっかり血の拭われた坂本の顔は、前髪を戻せば、絆創膏の存在すら薄い。

マスターの発言に、思わず強い目を向けた坂本だが、表情には分の悪さがありありと出ている。
坂本は、自分でもそれが分かったのか、気まずそうに目を伏せてテーブルの上を片付け始めた。

つまり図星だ。

いよいよこらえきれず、マスターは吹き出した。

こんな風に、
自分のいない所で自分のために、困ったり振り回されてくれる存在が居るとか、たまらないだろうなァ。

最近、日を追ってイイ感じになってゆく常連の少年たち。
その中心人物の心中に、思いを馳せてみる。

と、胸の中に、美しい鈴を包んだ柔らかな球が、ちりり、ちりりと鳴りながら転がっているようなくすぐったさを感じ、マスターは肩をすくめた。

この辺りで坂本は、そわそわと立ち上がり、
「色々、ども」
ありがとうございました、と礼を言って、裏口から出ていった。

図星を突かれて気まずそうだった坂本だが、結局、マスターには、何の口止めも頼まなかった。

あらま、オレってば、信頼されちゃってるのネ〜。

まんざらでもない気分でマスターは、もう振り返りもしないで、慌てて葛西の待つアパートへ帰ってゆく坂本を見送ったのだった。


―――ちりり、ちりりん―――



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