小話(81〜100)


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―――午前5時。

中天には、上弦の月が未だ白く輝いている。
夜明け前の最後の闇は、少しずつ丸められ、乳白色が空の裾から覗き始めていた。

すぅ、と目覚めた葛西は、降るような部屋の冷気から逃れるように布団に潜った。
が、隣で寝ていた坂本の背中が近すぎて、鼻を押し付けるような形になり、思わず、

「ブヒ」
と、呻いてしまった。

うぅ、と、くぐもった声を上げて、坂本が寝惚けたまま振り返る。
そのまま葛西の肩に頬を当て、

「どうした、ショルダー」
むにゃむにゃと言う。

「部位で呼ぶんじゃねェ、しかも安価っ」
「え、いーだろ、オレ好きだぜ、ショルダーベーコ〜ン」
「完全に加工されてるじゃねェか」

不満げにブーブー言っていた葛西だが、
「坂本、起こしちまったな」
と、この親友に対する極甘フォローも忘れない。

「別にいーよ」
ゆるゆると坂本は葛西を見上げ、それからその肩越しにほの暗い窓を見た。

「葛西、走ろうか」
「げ、マジでか」
「ああ」

葛西は、このあたたかい場所に、まだ坂本といたかった。

が、坂本が凪いだ目を逸らさずに見てくるので、結局、またブーブー言いながら身支度を始めた。

「全くオレがこんな甘ェなァ、お前ェだけだヨ」
葛西は振り返って、すんなりした坂本の輪郭を見遣った。

「ずっと知ってらァ」
のびをしながら坂本が笑う。


―――午前6時。

建物の立ち並ぶ街にあってさえ、そのわずかな隙間の地平から、朝日は朱々と昇ろうとしている。
ゆらゆらとした赤い半円は、むしろサバンナの日没に似ていた。

いつもの自転車に坂本を乗せ、葛西は西を指して漕いでゆく。
近所で一番、長く大きく真っ直ぐな通りを。

坂本は葛西の肩に額を預けた。

西へ。
西へ。

太陽はふたりの背中を照らしながら昇り、ふたりの前に現れる看板や窓はその光を受け、全てが赤金に輝いた。

それは光る河の水面のよう。
葛西は目をすがめた。
上弦の白い月が、空に薄められていく。


坂本は助からなかったのだ。


葛西が夕べ病院で見た坂本は、こんなにきれいな輪郭をしていなかった。
今から急いであの白い建物へ駆けつけてどうなる?

坂本は、旅立ちを葛西に預けた。


「葛西、疲れねェか?」
「お前を乗せて疲れたことなんか、一度もねェよ」
「そうかよ」

後ろに大切なものを乗せているから、震えて運転を誤るわけにもいかない。
それを矛盾した心配だと、葛西は思わなかった。
腹にしっかり力を入れて、前へ、前へと漕ぐ。

風の切れ切れに、坂本の小さな歌声が聞こえる。


美しい朝だ。
美しい世界だ。


ひときわ大きなビル広告の看板が、正視できないほどの反射光を放った時、ふ、と葛西の肩に風が巻いた。
急にペダルが軽くなって、一度空回りする。

何も遮るもののなくなった葛西の背中を、用意されたように春の朝日が優しくあたためた。


「ーーーーーーッ!!!」

気が付けば、葛西は叫びながら自転車を走らせていた。

葛西はこの春、正道館の例から外れ、真っ当に社会に出ようとしたが、それは坂本の命と引き換えになった。

端から見れば、今の葛西は早朝から奇声を上げて、独り自転車に乗るヤバい男で、坂本はまともな死に方をしなかった高校生である。

彼らを指して「おかしい」「まともじゃない」と言うことは、誰にでも通じる分かりやすい表現である。
だがそれは、何と乱暴で慈悲の無いものだろう。

ふたりは対のさなぎで、羽化を待っていた。
さなぎの中で、幼虫が一度溶けてから新しく形作られるように、明日を待っていたのに、
坂本はそのまま滴になって消え、葛西は燃える氷になった。


復讐は捨てて、
毒蛾とならず、
美しい蝶に、
美しい蝶に。

耳の中にまで流れ込む葛西の涙には、もういない人の祈りが溶けている。

やがて涙が乾いても、それはかさぶたのように優しく葛西の心を覆うのだ。

いつか静かに剥がれて葛西に聞こえるその日まで。


―――朝―――



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