RKRN御題部屋入口

□望む
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私は暗闇の中を歩いていた。前にも後ろにも何も見えず、踏んでいる足元でさえ、地面と空気の境も分からない。黒く塗りつぶしたようなこの場所に存在するのは私一人だけであるように思えた。

「おーい、照星」

そんな中、私を呼ぶ声が聞こえた。
声のする方向を探って辺りを見回すと、遠くにぼんやりと白く光っているものが見える。そちらへと歩み寄れば、光るものの正体が見事に咲き誇る桜の大樹だと分かった。そして、私の名をを呼ぶ人はその下にいた。

「久し振り。今日あたり来るんじゃないかと思ってね、まあ飲んでくれ」

木の根本に胡座をかいて座し、音もなく降る桜の花弁を浴びるその男は、闇と同化するかのようにつやのない黒色の装束と頭巾を纏っている。顔のほとんどの部分は布――これもやはり黒い――と包帯に覆われており、唯一露出した三白眼の右目だけが爛々と光っていた。
そいつは私に杯を差し出した。柄や模様のない、白磁の杯だった。私が男の隣に腰を下ろし、それを受け取ると、今度はなみなみと酒を注いだ。透き通った液体をぐっと煽ると、身体の奥へと吸い込まれたそれがじんわりと熱を発する。

「照星、近頃はどうしてるんだ?不景気やらでいろいろと大変だろう」

男は他愛ない世間話をしながら、機嫌良く酒を飲んでいる。私に渡したものと同じ、純白の杯だ。
会話の内容であるとりとめもない事には興味はなく、私はその喋る声に意識を傾けた。低く滑らかな声音は、耳にも悪くない。

「私とは正反対の性格だからねぇ、お前は。苦労も多そうだものな」

その他に、身体、仕草、表情の一つ一つを観察するように眺めた。

「あ。だからって、私が全く苦労してないってわけではないよ?」

それらを見ていると、どれも理解できて、そこにあるのが自然であるように感じた。彼の態度も不快ではなく、並んで飲む酒も美味い。
それなのに、どうしてだろうか。
酔いの助長もあってか、ますます饒舌になる男の話を遮り、私は言った。

「お前は誰だ」

ぽつりと吐かれた私の一言に、男はそれまでの陽気が嘘のように、しんと黙った。そして、目を伏せたままゆったりと笑う。

「何を今更。知っているだろう」

「ああ。だが、思い出せん」

私は目の前の男を知っていると知っている。遠い昔から、こうして言葉を交わし、肩を並べていた事も知っている。
それなのに、その記憶をどうにも思い起こせないのだ。いつ、どこで、どのように、会ったのかも、その時私が男を何と呼んでいたのかも。
漠然と分かるのは、その記憶が、この不確かな場所で会うようになる前のものである事だけだ。

「お前は誰だ」

再度私は問う。
私の事を少しも忘れていない様子の相手にすれば、失礼な問い掛けかもしれない。しかし、そんな事に遠慮しなくてもかまわない関係だった気がする。
果たして私の予想は正しく、男は愉快そうに目を細めて笑った。

「やはり変わらないな、お前は」

男が布の下の口が弧を描いているのが想像できる。あの布に隠された地肌はどんなものだっただろうか。これもまた知っている気がするのに、思い出せない。

「そうだねぇ……」

顎に手をかけ、思案顔を浮かべたかと思えば、男は突然、すい、と私の顔の目の前に自身の顔を持ってきた。猫のようにしなやかで、音のない動作だった。

「お前が望むなら教えようか」

男は笑顔を貼り付けたままで言った。

「もし、お前が目覚めてもこの夢を覚えていたならね」






目覚まし時計のアラームを反射的に止めた私の頭はまだぼんやりとしていた。浅い眠りの中をたゆたう自分を無理矢理起こし、ベッドから引きずり出す。
今日は会議がある。資料は整っている。パートナーの同僚と、もう一度打ち合わせをしなくては。
洗面所に向かいながら、今日のスケジュールを頭の中で組み立てる。

「…………」

ふと、何か忘れているような気がした。だが、仕事絡みの事ではない。今まで仕事に関する内容で失念した事はないし、手帳にも残しているため、不安はない。
何であっただろうか。
前々から、こういう事がたまにある。自分はそれなりに几帳面な気質で、こまめにメモを取るようにしているし、そもそも記憶力も悪くはないと自負している。だが、たまにこうしてどんな事かは全く分からないが、何か忘れているような、心のどこかに引っ掛かりを感じる。特に、朝、目覚めてすぐにそうなるのだ。
その原因が、とても気になる。

「………………」

しかし、いつもと変わらず、私は気のせいだと済ませる事にした。実際、気のせいなのだろう。そういったように、思い当たる節は全くないのに、違和感を感じる事が日常である、という人は少なくないと思う。
それに、本当に忘れている事があったとしても、今までに困った事がなかったあたり、生活に支障をきたすようなものではないのだから、放置しておいてもいいだろう。

『照星』

ただ、その謎の違和感には、誰かが私を呼ぶ声があったように感じ、それだけは気のせいだと割り切れず、いつまでも心に残ってしまうのだ。









































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前世の記憶を思い出せない現代照星さんとか、どこに生えてるの。



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