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共犯者[9]
近藤の手が自宅のドアノブを引くことはなかった。
家の目の前まで来て踵を返す。
ポケットの中で逆さまになっているであろう携帯電話を取り出す。
焦燥に駆られた親指は機動性が良く、物の数秒でその人物に電話がかかった。
『もしもし?』
語尾がかなり上がっている。相当驚いているようだ。
「トシ、聞きてえことがあるんだ」
『何だよ。どうしたんだよ急に』
近藤の声が緊迫しているのを電話越しに悟ったのだろう。
「先生の家を教えてくれ」
『は?何で』
「頼むっ」
先刻から嫌な予感がする。
学校に来ないってどういうことなんだ、高杉。
『あんた…何する気だよ』
「場所を知ってるのか、知らないのか、答えてくれ」
何をするつもりなのか、自分でも分からない。
『知ってるよ…いっぺん行ったことあるから』
問い詰められたくないからか、はたまた浮気への罪悪感からか、躊躇いがちな答え方だった。
「なら教えてくれ。大体でいい」
『あんたが先生ん家行ってどうするのか、その前に教えてくれよ』
「トシっ」
『言わなきゃ絶対教えねえよ』
土方の声に譲歩の気配はない。
「俺にもわかんねえけどさ…」
『…何かあったのか』
「もう明日から学校に来ねえっつーんだよ、あの二人」
『え?』
土方が暫し無言になる。驚愕の現れだ。
『…何だそれ。誰が言ったんだ』
「高杉、が」
関わるなと言われていたから、答えに一瞬迷いが生じた。
『どういう意味だ、そりゃ…』
だが土方の行き着いた答えは、恐らく近藤と同じものに違いない。
『学校に来ねえことはさ。来れねえようなことする、ってことだろ?』
「………」
近藤の呼吸が弾む。脳裏でゾっとするような光景が点滅する。
「教えてくれ、トシ」
明日まで待ったら遅い、と瞬時に誰かの声を聞いた気がした。
『あんたの考えてるような事態になってたとして…あんたどうするつもりなんだ…?』
「それは…」
もし最悪な事態を目の当たりにすれば、人生が180度変わってしまうかもしれない。
それなら事後報告を聞くだけのほうがマシだろうか。
否、それじゃだめだ。
そうなるのを止めなければ。
「教えてくれ」
『馬鹿…』
ぽろりと毀れた土方の声は、近藤に対する情を含んでいた。
『あんたは絶対、明日学校来いよ?じゃなきゃ、嫌だ』
「………」
恋人だった時の土方に駄々を捏ねられているようだと、近藤は思った。
「明日、英語の問題集説くの手伝ってくれよ」
『わかった…』
土方が場所を告げる。近藤はメモに残すことはせず、頭にしっかりインプットする。
タクシーだ。この時間なら、そのほうが早い。
携帯を閉じて再び無造作にポケットに入れる。
膝が力強く前に出る。
助けなければ、彼を。高杉を。
*
数々の残酷なニュースを、他人事のように聞き流していた日々が懐かしい。
今まさに自分が、その当事者になろうとしている。
高杉は深呼吸を繰り返した。
神様、ほんの数分だけでいい。
自分から冷徹な部分以外は削ぎ落として、血も涙もない人間にしてほしい。
あの男を目の前にしても動揺することのないよう。ましてや、情に揺さぶられることのないように。
ガチャリ、とキーが鍵穴に差し込まれる音。
銀八だ。
一瞬震えた喉をぐっと絞め、唾を飲み込んだ。
高杉は目を閉じた。自分の中の最も闇の部分を解放して再び目を開いた。
「おかえり…」
なるべく普段と同じ音色を装う。日常を繕わなければならない、というのが皮肉だ。
キッチンに入ってきた銀八に高杉はふと首を傾げる。
いつも肩にかけている鞄ともう一つ。
左手に白い紙袋があった。
「後で食うぞ。冷蔵庫入れとけ」
テーブルに置かれたそれを、高杉は覗き見る。
紙袋の中には箱が入っていた。
冷蔵庫の中に入れるとなると、銀八の場合は大抵がケーキかチョコレートだ。
「飯」
デザートが待ち遠しいのか、早く用意しろと言わんばかりに睨みつけられる。
今は彼の神経を逆撫でしてはダメだ。
「うん、すぐ用意する」
冥土の土産ではないが、せめて美味い飯を食ってから逝けと、高杉は銀八の好物を用意していた。
砂糖を多めに、肉はみりんを多めに。味付けは慎重だった。
このメニューの時はがっつり平らげてくれる。
満腹感の後は睡魔が襲ってくるようで、彼はいつもテレビの前で横になる。
半分意識が遠のいている状態だ。狙うのはそこ。
銀八のとった行動は、高杉の思惑通りだった。
御馳走様も言わなかったが、腹を擦りながら一息つくのは夕飯に満足していることの表れだ。
どうでもよかったが、冷蔵庫の中のものはどうするかと一応聞くと、「休んでから食う」と彼は言った。
すぐ傍のテレビの電源を入れ、よっこらと身を横たえた。
高杉は息を飲む。
無防備過ぎるその背中に「逃げろ」と思わず叫びたくなった。
だがそれ以上に真っ黒に染まった感情のほうが勝り、高杉は片づけをする振りをしながら、密かに凶器を手にした。
撲殺事件の凶器は金属バットや金槌といったものをよく耳にするが、そんなものを持ち出したら銀八が怪しむだろう。
その時その場に置いてあることが自然なモノで、殴り殺すのだ。
だが軽いものではダメだ。
相手に致命傷を負わせたら恐らく動揺してしまうから、なるべく一撃で殺せるもの。
それなりに重さがあるもの。食卓で不自然でないもの。
高杉はあの日のことを思い出した。銀八があの時凶器としていたのはペットボトル。
銀八が自分を助けるために持ち出した武器で、今度は銀八の頭を打ち砕いてやろうというのだ。
すごい。何て残酷な思考回路なんだろう。
「銀八…水飲む?」
冷蔵庫の中の2リットルのアルカリイオン水を握り締める。
「ああ」と眠そうな声が返ってくる。
隙だらけだ、と高杉は唇を少し吊りあげながら冷や汗を流す。
「今持ってくな…」
今、殺しに行くからな。
硝子製のコップに水を注ぐ。
ペットボトルを利き手に、コップを左手に持つ。
忍び足ではなく、堂々とした足取りで近寄った。
彼はすぐ目の前だ。
高杉は左手のコップを放った。
凶器を両手で持ち上げる。
高杉は右目を見開いた。
少しでも狙いが反れてはダメなのだ。
硝子が割れる音がした。
高杉の両手が振り落とされる。
「っ?!!」
瞬時のことだった。
硝子の音で身の危険を察したのだろうか。
あと僅かのところで銀八が身体を捩り、急所を外してしまった。
割ったのは肩だった。
銀八が耳を劈くようなうめき声を上げる。
じんじんと手首に反動が伝わってくる。
眼前の光景に青ざめて、高杉は思わず後ずさりした。
銀八自身も混乱しており、のたうち回った挙句、自分の置かれた状態を理解した。
高杉が自分を殺そうとした。
「っ晋、助…、…てめえ…っ」
骨が砕かれた痛みと動揺と怒りで、銀八の形相は凄まじかった。
高杉はひ、とか細い声をあげてしまう。
駄目だ。腰がひけてしまう…。
しまった、と思った。
「いい度胸じゃねえか…っ」
殺意というものを骨の髄まで感じ取った。
殺される。高杉はそう思った。
「や…だ……」
高杉は一歩一歩下がっていく。
肩を庇いながら銀八が立ち上がり、高杉に迫る。
「てめえがその気なら、生温いことはやめだ…」
「…っ……」
「てめえの四肢引きちぎって、一生外に出られなくしてやるっ」
全身が戦慄する。今のこの男ならやりかねない。
「誰、か……」
近藤―。
ペットボトルを握り締める手が病的なまでの震えを見せる。
「その残った右目も潰して、手足切って、ベッドにくくりつけて…そしたら…」
背中が壁にぶち当たる。
銀八の伸ばしてきた手が、まさに高杉の頬に触れようとしていた。
「毎日愛してやるから」
毎日、暗闇。
暗闇の中で銀八の声だけ聞こえ、愛撫だけ受け続ける世界。
そんな生活が…?
愛?この男の言う愛とは何だ。
ただの暴力ではないのか。
「そん、なの…」
そんな生き地獄。
今までの悪夢をまたぶり返すのか。
「そんなの…」
嫌だ。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ―――――!!!!!!!」
右手を振り上げた。
凶器の威力が銀八の頬を砕き、周囲に濁った血液が飛び散る。
彼が床に倒れる。
あまりの衝撃に意識が一瞬飛んでしまったのか、再び身を起こすまでに時間がかかった。
起き上がる?
「起きるな…」
高杉は何かに乗り移られたようになる。
よろよろと床に手をつく銀八の背中に、重さのあるそれを振り落とす。
肉を叩く音と骨が砕ける音が諸に響き、生々しさを感じながらも高杉はもう一度暴を振った。
さすがに二度も背中を殴打された銀八は、ぐったりとしていた。
痛みを知れ。
ぴくぴくと痙攣している銀八に、内心呟いた。
足掻きとも言おうか、まだ彼の掌は床を這いまわっている。
「ちょこまか動くなぁ!!!!」
高杉を支配したのは魔だった。
既に弱り切ってぎくしゃくしている彼の手を潰した。
ぐにゃりと真っ二つに折れ曲がり、地に張りついて静止する。
これでは虐待だ。
同じだ。銀八が自分にやったようなことをしている。
そうだ、これは制裁なんだ。
「早くっ」
早く死んでくれ。
高杉は銀八の頭を殴った。が、急所から思い切り外れており、床に真っ赤な血の池が出来ただけで、銀八はすーすーとか細い息をしていた。
まだ生きてる。何度殴ればいいんだろう。
一方で高杉は疲れを感じていた。
自身も意識が朦朧としているのが分かる。
(あと一回で終わりにしよう…)
一度そう決めると、高杉の神経は研ぎ澄まされた。
銀八はほとんど瀕死状態だった。
このまま放っておけばそのうち死んでくれると思うけど、それでは自分の気が済まない。
高杉は全神経を腕に総動員させた。
銀八の後頭部がよく見えた。これを振り落とせば即死だろう。
「銀八……」
好きだったのに。
高杉は歯を食いしばった。
「やめろっ、高杉!!!」
その声に、高杉は凶器を落とした。
拾おうとすると足で蹴られ、距離を離される。
身体を背後から抱きしめられ、高杉は床に崩れた。
ペットボトルが向こう側へ転がっていく。
その音が虚しく耳に響く。
何が起こったのか分からず、高杉は少し血に濡れた自らの手を呆然と見つめていた。
「学校に来ねえなんていうから…心配したんだぞ」
自分を抱きしめる逞しい腕は悲痛に震えている。
上の空で高杉は聞いていた。
「近、藤…?」
声と、抱きしめられた感覚で分かった。
「先生は?」
「え……」
近藤が銀八の有様を凝視する。
銀八の口元が微かに動いているのを見、溜息をついたのが分かった。
「救急車呼ぶぞ」
「………」
「まだ助かる」
呆然とする高杉の身体を解放し、近藤は「借りるぞ」と承諾も得ないまま、銀八の家の受話器を取る。
高杉は座り込んだまま、近藤の電話のやりとりを眺めていた。
切羽詰まっている割に、声音は冷静だった。
こんな状況だ。彼はやっとの思いで平静を保っているのだろう。
「どうして…」
虚脱した高杉の声に、近藤は苦悶の表情をする。
「俺は嫌だ…」
「………」
「お前が人殺しになるなんて、俺は嫌だっ」
人殺し、か。
ここにきて初めて、高杉はその言葉の重みを感じた。
「銀八…」
「………」
「銀八、はね…」
彼のほうを見やる。
真っ赤な血の池に沈んでいる彼が、高杉の視界を支配した。
「殺されて然るべき男だよ…」
「………」
「俺はいつも、裏切られてばかり…酷えことされてばっかり…」
惨めな姿を睨みつける。
「だから決めたんだ。俺の力で懲らしめてやるって…」
「…それで」
近藤は膝を折る。
「何で泣いてんだ…」
床に何滴も透明な粒が落ちる。
「それ…は……」
『晋助、あれ見ろよ…』
「それ…は……、…」
『綺麗だろ』
高杉は誤魔化しきれないほどに顔をくしゃくしゃにした。
その身体を近藤がひしと抱きしめてやった。
「救急隊ですっ」
白い装備に身を包んだ男たちが次々と部屋に上がってくる。
危険な状態だと判断され、銀八の身体は慎重に扱われる。
惨絶な光景を前にして隊員の一人が「何かあったんですか」と近藤に問う。
「落ち着いたら話します」
高杉を庇うようにして答える。
「お前乗るか?」
同行するかどうか尋ねる。
「う…ん…」
高杉は半ば非現実空間を彷徨っていた。
こっちも時間がかかりそうだと思った。
「大丈夫だ」
「………」
「先生は、大丈夫だ」
ちらりと高杉の視線が銀八の顔を彷徨う。
近藤が高杉の背中を押し、車内に乗り込む。
(そういえば、あのお菓子…無駄になっちまいそうだな…)
揺れの激しい密室の中で、高杉は頭の隅でそんなことを考えていた。
8月10日がヒントです。