命のナマエ

□(30)
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黒いゆがんだ…感情…。


それが沸き起こったのは、他でもない、

あの指輪を見てからだった。




“あの指輪を使えば救える”



いつからか…そう錯覚したきっかけは、
裂け谷で行われた会議が始まりだったように思う。


夢で見たお告げの内容は、
まるでそれを示唆しているかのように感じた。

そうした解釈がねじまがっていったのは、後々の事だが、
あの時の俺はすでに、指輪の魔力に魅了されていたのだと思う。



旅を続けるにつれて、

『あの指輪をもう一度見たい…』という気持ちがどこかにあった。



そうさせるだけの“強い力”を、
俺はあの指輪に見出し、その価値を確かに感じつつあったのだった。





30 Longing-熱望-



ーーーーー





雪山での出来事。

フロドが落とした指輪を偶然拾い上げた時、
俺は自分の中の欲望にはじめて気づかされた気がした。



「…あれっ、指輪が…指輪がありません。」



フロドは焦ったように服の下を確認するが、
すでに指輪はこの手の中にあった。


まじまじとそれを目にしたことはない。
触れたこともない。

けれど、それを手に取った瞬間は、甘美な何かに満ちていた。




「こんな指輪が、我らに危険をもたらすとはな…。」



金色の光り輝く小さな物体。


それが危険なものだからこそ、
こうして大勢の仲間が集まっている。


(だが、危険なものだからこそ、脅威であっても…
逆に大きな力を、我らにもたらしてくれるのではないか?)



深層下では、そんな感情が首をもたげてくる。



アラゴルンが手を剣の柄に手をかけ、警戒の色を示していたが、
立ち尽くして、じっと指輪を見つめていたボロミアは気づかなかった。


その異様さは周りにいた仲間にも伝わったし、一戦が交えそうな緊迫感が包み込んでいたが、
唯一ハレンだけは、その状況を傍観せずあえて関わろうとしてきた。



「ボロミアっ…ちょっと落ち着いて!」


彼女は声をあげて、自分に近づこうとする。


「…きゃあ!」


が、その前にこけた。



悲鳴と派手な音に、
誰もが釘付けになったが、この状況下もあってホビットさえも笑うことはなかった。


顔面ごとを突っ込むという見事なコケっぷりに、顔を赤らめているハレンだったが、
ある意味、助け舟のような展開に、場の空気は急激に冷静さを取り戻した。


ふと顔をあげると、
警戒の色を示したフロドの目線が突き刺すようにこちら見ているのに気づいた。



「たかが指輪だ!」



笑って、フロドに指輪を返す。



(…何をそんな真剣そうに。ただの指輪じゃないか。)



フロドの頭をクシャっと撫でては、そのまま立ち去っていくが、
複雑な思いがこみあげたのは否めない。



(フロドはあの指輪を持つことを許されている。
ならば少しくらい、自分に持たせてもらっても構わないのではないか?)


純粋な疑問がわきあがった。


そもそも自分もこうして持つことが出来るのに、
どうしてあの指輪を危険視するのだろうという感情すらわきあがった。



このとき、感情の不可解な矛盾点に気づくことはなかった。

確実に支配されようとしているにも関わらず、
自分なら指輪を利用できるという錯覚に陥りつつあったのだ。



「ボロミア!」


ハレンが慌ててこちらに向かってくる。


「なんだ、どうした?」


「どうしたって…、貴方が心配だから話しかけたのよ。」


「さっきの事なら何も心配することはない。
ただフロドに指輪を返しただけだ。」


「そうだけど、あの指輪は危険だから…。」



彼女は他意もなく、気にかけてくれているようだった。

だが、言葉ではすでに『心配はいらないさ』と言い切っていた。


不思議なことに、そう跳ね除ける時だけ、
指輪に抱いていた感情は消えうせていて、そう思ったことさえ忘れていた。



「それよりあんな風にコケて、ハレンのほうが大丈夫か?」


「もう…人が心配してるのに。
平気よ、大勢の前で顔面からこけて恥ずかしい思いをしたくらいで。」


拗ねるようにつっぱねると、
彼女の態度は途端、年相応のものに思えて安心できるのだった。



「怪我はないんだろう?良かった。」



そう言うと、彼女はひどく驚いたらしい。
目をまんまるにして、こちらを見つめている。



「…なんだ、俺が心配するのはそんなに変か?」


「違うわよ。
あたし、貴方にはあまり良い印象もたれてないものだと思っていたから…。」


正直な告白に、思い当たることが多すぎて、
なんとも胸が苦しくなるのだった。



「これでも、ボロミアが優しくないとかそう思っていたわけじゃないのよ?

でも、認めてもらえないと思っていたし、
貴方の根は優しくても、あたしはあたしで意地張っちゃうこともあるし…。

そういうのも含めて、馬が合わないものなのかと…。」


彼女は彼女なりに、気丈に振舞っていたように見えたが、
自分の知らないところで、悩みの種になっていたようだ。


おそらく、自分の行いが要因ではあるのだが、


それにしても―ー…



「優しい、俺がか?」


唐突に投げかけられた本音に、今度は自分が驚く番だった。



まさか、あの態度をしてきてその言葉が聞けるなど想定外だったし、
ある意味、そんな風に人を評価できるのは、
よほどハレンの器が広いか、お人よしな性格なのではないかと…逆に心配になる。


(まあ、それも余計な世話かもしれんが…。)



「そうよ。

貴方って、初めからホビットにすごく面倒見がよかったし、慕われていたでしょう。

あたしに対しても、怪我の忠告を真っ先にしてくれたわ。

もちろん、分かり合えないと思った時期は辛かったけど、
簡単に考えているようじゃ、ついていけない旅だったもの…。

アラゴルンでさえ、厳しく指導したんだから。」



ことの道理が分かっているうえで、
ずっと口をつぐんで耐えてきたというのなら、
なんと芯の強い女性なのか…と感心するのだった。


と同時に、自分はなんて事をしてきたのか…という後悔が押し寄せた。


幼稚な態度で、彼女を苦しませていたことに、今まで気づけなかった。



『笑っているから平気だろう』と、
そんな単純なことではないはずなのに、安易に捉えてしまっていたのだ。



「…俺はずいぶん、失礼なことをしてきた。申し訳ない。」


「謝らないで、もう済んだ事なの。」


苦笑して水に流そうとするハレンは、
自分より年下なのに、ずっと大人の女性に思える。


(いっそ責められたり、非難するなら、分かりやすいものを…。)


そうやって、一人耐えようとする少女が、痛ましくてならなかった…。



「いいや、俺が気にする。
いくらハレンのことを知らないとはいえ、はじめから決め付けていた。

知りもしなかったのは、自分から関わろうとしたなかったせいなのに、
理解しようともせず、俺の言葉はただの傲慢だった。」



今なら、はっきりと分かる。


彼女には偏見の目が合ったという事を。


もしも女性だから戦闘力が低いと非難するなら、
ホビットでさえ同じようなものだ。


けれど、ハレンはただ守られているだけの女性でもないし、
その強さはアラゴルンの折り紙つきだ。


それなのに、自分はまだ彼女を見下していた部分があったのだ。



「…だから、すまないことをした。」



足を止めて、しっかりとハレンに頭を下げる。


一方の彼女は、穏やかな表情で、
あきれたように言葉を吐くのだった。



「ボロミアってば…
そういうのが優しいって言うのよ?」



ふわりとほころんだ彼女の笑みが、後悔の念を少しだけ和らいでくれる。




「ボロミアは自分の非を認められるもの。

あたしがどここう言わなくたって、
自分で自分を省みる誠実さと責任感の強さがある。」



そうやって面と向かって賞賛されたのは、
ハレンが初めてかもしれなかった。



「あたしはね、ボロミアのような人からすれば、
何も責任を持たず、この旅に参加したのよ。

ガンダルフについて来ただけ。
それだけで、姿勢も志も、あまりに甘いのは目に見えてるもの。」



過去を省みるように、肩をすくめたハレンは、
まるで仕方のないことだと自分に言い含めているような口ぶりだった。



「…そうだろうか…?
俺には、何か信念を持っているようにも見える。」



確かにはじめはそう思っていた。

でも、旅を共にするにつれて、別の感情がわきあがった。


いまや彼女は、旅の仲間のなかで一番慕われているに違いない。

そう本人は自覚していないが、
この仲間で種族問わず、誰とでも話せるのはハレン、そしてホビットくらいなのだ。

そして、ホビットたちは何より、ハレンをよく見ているし、
ハレンもまたお姉さんのような立場で、彼らを気にかけている。


普段はレゴラスの傍にいようとも、
一人ひとりと深い信頼関係を築いているハレンの姿は、俺にはとてもまぶしい存在でもあった。



「あたしはただ、大切なものを守りたいと思っている人たちを守りたいだけ…。

ううん、守るってほど強くはないから、
少しでも手助けになりたいだけなの。」



そういえば、何故旅に参加したのかなど、
聞き及んだ事は一度もなかった。


「大切なものを守りたい人?」



彼女はまっすぐな瞳で、仲間たちの姿を見つめていた。



「うん、レゴラスとか、ギムリとか、アラゴルンとか…。
ボロミアだって、大切なものを守るために此処にいるのでしょう?

あたしはその人たちの少しでも手助けができたらって思うの。」



そこに、ハレン自身の願いはなかった。



「――ハレンは?

…ハレンは、それでいいのか?」



反射的に、そう問いかけていた。



「あたしには国がないから。」



あっさりと言い放たれた言葉だったが、そこに重みは感じた。



「ガンダルフに保護されたって言ったのはそういうことなの。
あたしには、守りたいと思う国がない。

でも、此処には守りたいものをたくさん持っている人たちがいる。

あたしにはなくても、皆にはある。
だから、その力になりたいって、旅に参加するようになってから思ったの。」


ハレンは「全部、後付みたいなものなんだけどね…。」と誤魔化していたが、
少なくともそれに近い感情は、すでに旅以前にあったはずだ。


そうでなければ、あれほどの訓練に耐えられるはずがない。


(――ハレンは、家族が居ないだけでなく、
故郷さえもなかったというのか…。)



その事実に、愕然とした衝撃を受けた。



「ハレンは人間の国に戻りたくはないのか?」


「――え…?」


不思議そうな瞳がこちらを見上げている。


「もし、私の国に…。

ゴンドールに来られるならば、その国の住人になることも可能かもしれない。」



何故、その提案をしてしまったのか、

自分にもよく分からなかった。


ただ、彼女にも故郷を与えてやりたいと純粋に思った。



「ありがとう。

でも、あたしは今の自分も含めてあたしだと思っているから。」


「そうか…。」



はっきりと意思を告げるハレンは少なくとも、今の現状に満足しているようだった。



「――――ハレンっ!!」



突然、ガンダルフの怒声が響き渡る。


キーンと鳴り響いた声に、
ハレンはとっさに耳を塞いでいた。


一番先頭にいるというのに、よく通る声だ…。



「おしゃべりもそこそこに、遅れをとるでないぞ。」



気づけば自分たちは、一番後ろへと流されていた。


「はーい。」


最終尾についていたハレンは、悪びれることもなく間の抜けた返事をかえす。


振り向いていたガンダルフは、
やれやれと言わんばかりにため息をついて、また歩き出していく。


(不機嫌そうな顔だな…。)


前列に並んでいるレゴラスの表情を見て、
そろそろ、保護者兼婚約者のもとに返してやるべきか…と引き際を感じたボロミアであった。
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