命のナマエ

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「…ハレン、眠いなら少し寝ててもいいんだよ。」


ぼんやりしていた頭が、レゴラスの声で覚醒する。


「そうだ、ずいぶん顔色が悪いぞ。
もしや…昼間寝れてないのではないか?」


それを心配そうに見ていたギムリも、
レゴラスの言葉に、こくりと頷いた。


「一応、睡眠をとってはいるし、
昨日はしっかり寝ていたほうだったよ。
けど、体調はよくないんじゃないかな。」


「大丈夫だって、
ちょっと船の揺れで眠気を誘われるだけで…。」


あたしが平気という前に、
レゴラスが代わって返事をしてしまい、やや恥ずかしい気持ちにもなる…。

これだけ近くに居ると、今までもそうだが、
過保護なレゴラスらしく、睡眠時間までも把握されてしまうのだ。

まるで、普段から、あたしの健康管理をしているようだ…と思わないでもない。
(冗談に聞こえないんだから…。)


「出来るなら、もう少し休ませてあげたいよ。」


ため息にまじって聞こえた言葉が、
一瞬、眠気で遠さがかりそうになる。

視界にもやがかかる様な重いだるい空気は、
いったい何処から湧き上がってくるのか…。


何故だろう。

睡魔を感じながら、少し嫌な予感がした…―――-




″…ハレン…ハレン…"



ふいに、誰かに肩を揺さぶられかのような気がして、びくりと身体を起こす。
目の前の光景に息をのむと、あたしはとっさに大声をだして、レゴラスを呼んだ。



「――…レゴラスっ、流されない!?
この船っ!」



水の流れに異変を覚えて、レゴラスに訴えた。


「なんだって?」


船は左へ左へと押し流されている。

レゴラスはそれを聞いて、船の動きを変えようとしたが、
急激な流れの変化とその速さに、追いつかなかった。



「ハレン、しっかり掴まってて!

船が…ぶつかるっ!」


あたしがとっさに目をつぶる頃には、
大きな衝撃と共に、前方に連なっていた2艘の船もろとも、
立ち往生する事態に陥ってしまうのだった。



「おーい、アラゴルン!」


ボロミアが大声をあげて、先頭にいるアラゴルンに声をかける。


「駄目だ。とてもじゃないが、こんな夜中に通れるとは思えないぞ!」


「戻れ、戻れ!

ボロミア、レゴラス。向きを変えるんだ!」


そう言うとアラゴルンは櫂で何とか船を押しとめて、旋回させようとする。

彼に習い、ボロミアとレゴラスの船も旋回したけれど、
流れに逆らって進むのは至難の業だ。


ちょっとずつしか進まない。


「皆、一緒に漕くんだっ…!でないと浅瀬にのり上げるぞ!」


アラゴルンの号令を機に、
一斉に仲間たちが、船をこぎに取り掛かる。


「…レゴラスッ!俺にも櫂を貸せ。」

「頼むよ、ギムリ。」


レゴラスは若干苦しそうな顔で返答した。
ギムリはこくりと頷き、意気込んで参戦する。



「ハレンは私の隣でいい。一緒にこいで。」


「分かった。」


あたしも残っていた櫂を手に取り参戦しようとすると、
レゴラスが自分の隣のスペースを空けてくれた。


皆が力をあわせて漕ぎ出すと、
押し流されながらも、すこしずつ前進しているようだった。


その時…―――-ヒュン、と弓矢がかすめた。



「――イルフだっ…!」


「オークっ!?」



エルフ語で告げられた敵の奇襲に、
仲間たちはざわついたが、手を緩めることはできない。
 


(…気を抜いたら、また流されてしまうかも。)



騒ぎに耳をすませませていると、
放たれた矢は、アラゴルンやフロドの間近をかすめていたようだ。

幸いこちらに向かってきた矢は外れたけれど、
オークはまたすぐに次の矢を放ってくるに違いない…。



一行は急いで船をこいで、オークから逃れようと試みる。

だけど、暗闇の中では、どれぐらい船が進んでいるかさえ分からないし、
きっとその進み具合も微々たるものだ…。


矢の放たれる、
ヒュンという音がなり続ける中、
あたしたちは必死になって船を漕いだ。


ぽちゃんと、
矢が水面にあたる音だけが響き渡たる。



「…ねぇ、レゴラス。

オークは?船は進んでいるの?」



夜目がきかないあたしは、
おそらくその様子が一番よく見えているであろう隣に居るレゴラスに声をかける。



「大丈夫、進んでるよ。
オークについても、心配しないで。
どういうわけか掠めたのは最初だけで、後はずっと的が外れている…。

きっとこのマントと、船のおかげだろうね。」



レゴラスはいくぶんか穏やかな口調で語り始めたので、
ひとまず安心していいようだ。


エルフの作るものには感心してばかりだけど、
奥方様はありがたいことに、
身を隠すのに最適な贈り物を提供してくれたみたいだ。


その後、完全に音は遠ざかり、
静まりかえった川の流れにのった。

一行は木々の影になる場所を見つけると、
そこで船を漂わせたまま、一息つく。


あたしも櫂を置いて、
しばしの間、手を休める。



だけど、この時、
頭上には…――不審な影が空中を漂っていた。



「ん、あれは何だ?」


ギムリが声をひそめて、上を見上げた。



「…何かは分からない。でも、嫌な感じだ。」


レゴラスでも、
得たいの知れない何かーーその正体を見ることができないようだ。

それなのに、奴の甲高い叫び声だけは、はっきりと聞こえた。



「弓で届くのか?」

「やってみよう。」


ギムリはそう問いかけると、
続いて頷いたレゴラスに、ロリアンから持ってきた大弓を差し出した。



「エルベレス ギルソニエル!」


レゴラスの掛け声と共に、弦の音が鳴った。

放った矢は大きく円を描いていて、
空中を飛び交っていた翼をもつ何者かに、当たったのが見えた。


それが落ちていく瞬間、
ひどく耳障りな悲鳴が聞こえた。






その後のあたしたちは、
アラゴルンの先導によって、浅い入り江を見つけた。

勝手に流されないように、3隻の船を離れないようにくっつける。
お互い狭い船内で、身を寄せ合うように身体を休めることにしたのだった。



「やったな!さすがレゴラスだ。」


ギムリは、先ほどのレゴラスの射弓にたいした腕だ!と褒め称える。

おそらく、あの一帯を含めて岸にはオークがたくさんいたのだと思う。

でも、レゴラスが何者かを射ち落とした時、
敵が一瞬ざわめいて、静まり返った。


結局、その後は何も起っていない。
ただ不気味なほどの静寂さが、岸辺を包みこんでいた。



「ありがとう、ギムリ。

それにしても、アレは一体…なんだったんでしょう?

なんにせよ、地面に落ちたことで、敵はあわてたようだけど。」


レゴラスは考え込むようにしたが、答えは見当たらず、空を仰いだ。


当然、今はあの甲高い声も聞こえない。



(…だから、もう大丈夫…。)



「ハレン。
大丈夫かい、顔が真っ青だよ?」



自分に言い聞かせていると、レゴラスが顔を覗き込んだ。



「頭上を飛びかっていたあの黒い影…が原因か?」



アラゴルンが心配そうに見つめるが、
言葉にしようにも喉がカラカラで声が出なくなり黙り込んだ。


「アレは、まるでバルログのようにも思えるほど不気味だった。」



レゴラスがそっと肩に触れて、気遣う様子を見せる。
その言葉に、いまあたしの中で湧き上がっている感情が《圧倒的な恐怖》であることに気づいた。

いつのまにか、手が小刻みに震えていた。



「バルログではなく…もっと冷たいものです。」


そう答えたのはフロドだった。

彼もまた、いつもより顔色が悪く、
アレの正体が何か気づいているようだった。



「心あたりでもあるのか?フロド。」


話を聞いていたボロミアは問いかけた。

フロドは一瞬口を開こうとしたが、
首を振ってまっすぐと視線をあげた。



「―ーいいえ、今日はこれ以上は話さないでおきましょう。
敵であることには変わりませんから。」


フロドは確証も得られない事実を述べたところで、
不用意に皆を心配させることになるだろうと思ったし、それだけは避けたいようだ。



「フロドの言う通り。
ともかく私たちは用心するだけだ。

みな、武器から手を離さぬように。」



アラゴルンは頷いてあたしにもフロドにも、それ以上、何も聞くことはなかった。
みんなに注意を呼びかけると、この話題は過ぎ去って、皆は思い思いにつかの間の休息に浸りはじめた。



その傍らで、フロドは静かにぎゅっと服の上から指輪を握り締めていた。


「フロド…。」


あたしの声に気づくと、フロドは不安そうな瞳でこちらを見返すのだった。


「ハレン、気をつけて。
あれは僕だけを狙っているんじゃないと思う。」


「…分かってる。

でも、貴方もどうか気をつけて。」



フロドは小声で呟くと、視線だけあたしの指輪に向けていた。


――服の中に隠された、聖なる使者の指輪。

そして、フロドが持っているサウロンの指輪。


どちらも、同じように重い枷を嵌められた運命を共にしている。



サムがアラゴルンと話している声が聞こえる。
それを機にフロドは離れて、その会話に入っていった。


あたしはぼんやりと空を見上げていた。
星の輝きは見えないが、月だけははっきりと確認できる。




「ハレンも休んだほうがいいよ?」



レゴラスが気にかけて、船に横になるように促した。


「うん、そうだね。」



その言葉に頷いて、あたしは彼の傍らで眠り、
つかのまの夢の世界で《恐怖》から逃れるだろう。



でも、いつか、その日は終わる。



確実に、あたしは《恐怖》に引き戻される。




(―――闇があたしたちを捕らえようとしている…。)




それは、フロドとあたしが言葉にしなくても伝わる共通の《恐怖》そのものだった。
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