命のナマエ

□(29)
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「簡単に死ぬなんて、言わないでよ…っ!」



ぽたぽたと降り注いだ、無数の雫。


激しい怒りの感情をぶつけられ、
悲しみと苦痛に歪んだ彼女の表情を見つめた。



(−―いや、もう無理なんだ。)



諦めざる終えない状況が俺を追い詰める。

呼吸が乱れ、意識が混濁する。

ああ、こんな事ならば、もっと早く、
彼女の忠告に耳を傾ければよかったものを…。


そう思ったが、手遅れなのは間違いなかった。


指輪を奪おうとした俺に、フロドはもう心を開かないだろう。
完全に傷つけた…その事実が俺の心を深く切り刻む。


何故こんなことになった?と脳裏では問いかける声がする。


馬鹿げている、自分のせいなのに。
不思議なことに実感が沸かない。



「諦めないから…絶対に…。」


ハレンは拳を握り締めて、肩を振るわせた。


ああ、この頭を撫でて慰めてやれればいいものを頭には浮かぶのに、
思いに反して、自分の手はうまく動かない。


やはりもう…。


覚悟を決めて、俺はハレンを見据えた。


そしてハレンの泣き顔を見つめながら、
同時に、旅を出発する前の事をふと思い出した。



あれはいつの日だったろう…。

彼女と初めに出会った日のことだ。




29 belief-信念-

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それは裂け谷を滞在して数日後のことだった。


俺はその晩、寝付けずに、
ふらふらと館内を歩き回っていた。

日中様々な種族でにぎわう廊下も、時間が遅いためだろう…人通りはない。

エルフの歌声だけが何処かから聞こえてくる。
姿を見かけることはないが、彼らの夜はまだ長いようだった。


唐突に、暗がりから人影がのぞく。



(こんな夜中に珍しい…。)



自分のことは棚にあげて、
今晩出会った、はじめての通行人に驚いた。


驚いたのは人がいたというだけではない。



その人影がどう見ても、女性だからだった。

寝着だろうが、薄着のドレスを着ているのが遠目から確認できたのだ。



(いささか…警戒心がなさすぎではないだろうか。)



いくら裂け谷は良心的なエルフに満ちているから、安心できるとしてもだ。

会議前ともあって来客も多く、見知らぬ者も歩き回るというのに、
夜中に女性ひとりとは心もとない。


彼女はしだいに近づいてきて、ようやくその姿を確認できたが、
靴をはいておらず、裸足なのも気にかかる。



エルフのように長いドレスを身に纏っていたために一瞬身間違えたが、
彼女はエルフではなく、人間の娘のようだった。


彼女は何かに追われるように、急いで走っていたため、
それがより事件性をにおわせるような気がして、目が離せなかった。



そんな彼女は、突然、
自分の前で転んで、倒れこんだ。



ややどうするべきかと困惑した。
立ち去ろうとも考えたが、わずかに躊躇する。


けれどもし何かあったのなら、
丁重に部屋に送り届けるべきかもしれない。


そう思って、おそらく自分に気づいていない彼女をびっくりさせないように
ゆっくりと近づくことにした。



「…大丈夫か?」


声をかけると、やや間があって静かな声色が帰ってきた。


「平気です。」


たった一言だけ。


彼女は顔を伏せていてその表情は見えない。
手を差し出そうとしたが、その前に彼女は立ち上がった。


ただ一瞬、こちらに目を向けて、
一礼をしてはすぐさま、立ち去っていった。


その頬には、無数の涙が伝っていた。



見間違いかもしれない。
けれど、俺はその切迫した光景に、
彼女の身に、何かがあったのだろうと思わざるおえなかった。


しかし、到底彼女のことは何も知らない。

ただ、エルフの服を着ている少女というだけで…何も。


会議は明日行われる。
それが終われば、来客も減るだろうし、相手はただの少女だ…。


もう会うこともなかろう、その時はそう思った。
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