命のナマエ

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その後、あたし達は丘の上に上って、焚き火をして囲うように身を寄せ合った。

もう追われていることは分かっているし、
ワーグが襲ってくるなら明るいほうが戦える。

ホビットたちは安心しきったように眠っているけど、
ガンダルフやアラゴルンのピリピリした緊張感が漂い、あたしは瞼を閉じることは出来なかった。


「ハレン、寝ていてもいいんだよ?」


レゴラスも自分の下に弓を引き寄せて、いつでも戦闘体制に入れるようにしている。


「一人だけ寝ていらないわ。」


目を凝らすと、うっすら黒い影が無数に取り囲んでいるのが見えた。


「…戦う気なのかい?」


「此処で戦わなきゃ、どこで戦うというのよ。」


強い口調で告げるハレンに、レゴラスは顔をしかめる。



「――ハレン、君は…」




レゴラスが次の言葉を紡ごうとした時、




――オオオオオオォォォーーーンンン!!




「サウロンの犬どもが!
このガンダルフが相手じゃ、命が惜しくばさっさと退散せぬか。」


ガンダルフが杖を高々と掲げる。

まるで印籠を持って“これが目に入らぬか!”といわんばかりの情景である。


ワーグは唸り声を上げながら、突進していく。


レゴラスがすぐさま矢を射った。

しゅんっと軽い音を立てて飛んでいった矢は見事に命中し、その場にワーグは倒れた。



(早い…。)


弓をつがえて、射るまでの時間はそんなに無かったはずだ。


〈練習と実践では訳が違う。

一瞬の気の迷いや油断が命取りになる。〉


以前、レゴラスに言われた忠告を思い出した。


ワーグたちは一時的に撤退したようだけど、
今度はいつ襲ってくるかも分からない。




「レゴラス。」


立ち去るワーグの群れに厳しい視線を浴びせていたレゴラスだったが、
次第にその横顔は穏やかにほどけていく。


(ああ、この人ってこんな表情もするのね…)


普段の顔とは違う、戦いの時だけに見せる厳しい眼差し。
横になってぼんやりとしていく頭で、ハレンはそう想った。


「危険になったら起こしてくれる?」


レゴラスはいつもの微笑で頷いた。


「お望みならば。

もちろんワーグが来たら必然的に起こすことになるだろうけどね。」


レゴラスの言っていることがストンッと胸に落ちる。
先ほどの自分は思っていた以上に、焦っていたし、余裕がなかったように思えた。


(思った以上に疲れているのかも。

・・・足でまといにはなりたくは無い。)



「…ありがとう。やっぱり少しだけ休むことにする。」


「それがいいよ、ハレン。お休み。」


マントにくるまり横になる。
そっと額に手のひらが置かれた感覚がした。

瞼を閉じると気を張っていたせいか、すんなりと眠りに落ちていった。



(大事なのは、“自分の命をどう守りながら敵を倒すかっていうこと”よ。)



眠る直前、
レゴラスに諭されたことがあるそれ(教え)を、
あたしは心の中で反芻して言い聞かせた。



当時より、その意味を理解しているはずだ。



―――ハレンは浅い夢の中で、当時の出来事を思い出していた。








『ハレンの戦い方は、自分を投げ出している。
今のままの君を旅に連れていけはしないよ。

君の命が絶えてしまう。

そんな戦いを私は許しはしない。


自分を大切にすべきだ、

そうでなければ大切なものは何も守れやしない。』




アラゴルンに剣の教えを乞い、少しずつ慣れてきて、
レゴラスとの一騎打ちという新しい実践に入った頃の話だった。


勘の鋭いレゴラスには見抜かれていた。


その時のあたしは自分の保身に関心がなかった。

いざとなれば、
自分の身を乗り出して前に出るような戦法で、他の者からすれば、かなり無茶をしていた。


誰かの命を助けるために、自分の命は厭わない。
その姿勢が自然と、剣術にも弓術にもあらわれる。

技術と経験をつんでいけばいくほど、
自分の癖や性格は染み付いていくものだ。


レゴラスはそれを知っていたからこそ、
ハレンの戦い方に対して、厳しく指導していたように思う。


ある意味“聖なる力”を秘めた彼女は、
少々の傷なら自動的に回復し、治癒することも出来る。

だからこそ、多少の無理ならと自己犠牲する精神が先立つのも道理だった。



しかし、それが自分以外の者にどんな感情を与えるのかなんて事を、

彼女は知るはずもなかった。



ハレンにとってみれば、異世界の住人。

“聖なる光の使者”である自分は、異質な存在としてしか認識できない。


〈力を皆のために使うこと〉


それが彼女にとっての糧であり、存在意義になっていた。

逆にいえばこの術を断たれてしまえば、ハレンは自分自身に、中つ国に、
あらゆる全てに絶望して、
受け入れることなど出来ないままだった。


だからこそ、
その方法を与えてくれたエルロンドとガンダルフに恩義を感じ、
“彼らの助けになりたい”という献身的で受身な姿勢にならざる終えなかったともいえる。




『…あたしは皆を救えれば、それでいいのに。』



旅に参加しようと思ったのも、
ガンダルフが支えようとしているフロドのためであったり、
旅の仲間を癒すことができるからである。


治癒の力を持ち合わせている彼女が、
自分の力を呪いながらも、支えにしている曖昧な構図が出来上がったのもこの時期だった。


そして一番、問題なのが、
当の本人であるハレンが、自分を大切にしたいという感情がまったくない事。


レゴラスはそれを密かに感じ取り、
特訓に明け暮れるハレンが気がかりだった。

彼女はこの日も特訓を終えて、ふらふらと散策していた。
たまたま外を歩いていると、ボロミアとばったり遭遇したのである。


『こんにちは。』

声をかけると、少し動揺したようにボロミアは眉をよせた。


『…女が剣を扱うとはな。戦いは簡単なものじゃないぞ。』


腕にはわずかに、掠った切り傷が赤い筋をつけている。
毎度の事なので、治すのも面倒でそのままにしていた。


『いつか貴方と手合わせをお願いしたいものです、ボロミア。』


遠慮がちに告げて苦笑するハレン。


『待て。』


そのまま立ち去ろうとすると、ボロミアは顔をしかめて不機嫌そうに告げる。



『怪我はちゃんと消毒をして、包帯を巻いておく事だ。
何かあった時には遅い。小さなことが戦場では命取りになる。』


そう言われて、パッと手渡されたそれは白い布だった。
丁寧に巻けば包帯として使えるだろう。



『ありがとう…』


彼は立ち止まらず、その場を去っていった。

あたしは部屋に戻り、傷口を洗った後、アルウェンにもらった傷薬を塗り、清潔なその布を巻いたのである。


先ほどのボロミアの言葉を反芻する。


〈何かあった時には遅い。小さなことが戦場では命取りになる。〉


レゴラスに言われた言葉とほぼ同義語だった。


(あたしが、“分かってない”んだろうな…)


ハレンはサルマンに捕らわれた2年間、
無理やり戦場に狩り出されたことが何度かあった。

その時は“影”のあたしが表面化して、あたし自身は出て来れなかったから、

実際に命に手をかける瞬間をいまだに認められない。


(あれも、あたしである事に違いはないのだけど。)


暗い過去が心をぐちゃりと押しつぶす。

鈍い音をたてて、足元から崩れそうになる感覚。


でもこれから、戦いに身をおけばいくらでも味わう感情に違いない。



(自分の身は大切に思えない…。

その上、命を奪い取るのは恐いか。)



心の奥に眠っていた自分の心理を知って、愕然となる。



何が守りたい、だ。

救える力がある?

そんなの、強がりだ。


押し寄せるのは深い後悔と懺悔。


重い枷が縛りつける、

囚われているのは自分の心だっていう事は知っているのに、逃れる方法を知らない…。


いや、逃れようともしない卑怯者が“あたし”なのだ。



『ハレン、ちょっといいかな?』


心の防波堤がボロボロと決壊していく中で、
レゴラスがあたしの部屋を訪ねてきたのだ。

部屋を空けてほしいと頼まれたが、あたしはYESと言えなかった。


重いドア。重い空気。

しがみついているのは誰?



『ハレン。』


ドア越しに君の声。

怒っているとか泣いているとか、
レゴラスが思わないことだけを祈った。


『このままでいいから、聞いて。』


そっとドアに近づき、耳を澄ます。



『さっきは厳しい事を言ったかもしれない。

でも、私はハレンの事を大切に思っているんだ。
命を無駄にはしてほしくない。』



彼が本気で、話してくれることが声色だけで伝わる。
顔を見てないのに、どんな表情か想像できるのが不思議だった。



『それと、傷は平気かい?
ハレンは放っておくから、もう少し気にしたほうがいい。女の子なんだから。』



女の子という扱いに少しだけくすぐったくなる。

いつもレゴラスは優しい。

そんな優しさに甘えているだけのあたしは、
こんな自分でいいのか?と疑心暗鬼に陥るくらい、彼の存在がまぶしかった。


『たった今、包帯は巻いたから大丈夫。』

『そう…。』

小さくそれだけ呟くと、
扉の向こう側からは安堵した声色が聞こえてくる。


レゴラスはこんなにも、
あたしを気にかけてくれている。


あたしはいつも、自分の事はおざなりだったのに…。



『レゴラス…。』


会話が途切れたのを機に、
ハレンは自分の心のうちを打ち明けることを決意した。



『あたしはきっと、レゴラスに言われたことを守れない。

どうしたら、自分を大切に出来るの?

どうしたら、自分を大切にしたことになるの?

あたしには分からない。』



レゴラスはハレンの言葉を静かに聞いていた。
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