百年、待っていてください


□ストレイシープ
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俺達は、上野の大学構内の、三四郎池に、来ていた。
「三四郎かあ。俺一度読んだけど、訳わかんなかったよ。、、とくに、あの美禰子、て女」
そういって、俺は池の踏石の中程に立っている、一人の女を見た。
美禰子は確か浅黒い女、だったはずで、この女とは似ていない。
だが、不思議な所が何処か、似ている。
三四郎は田舎から出て来たボンクラで、この美禰子という女に恋するのだが、気があるのか、ないのか、女は謎の言葉を残し、さっさと他の男と結婚してしまうような、そんな内容だと覚えている。
「福田さん、漱石、読まれるんですか?」
「単位やんねーって言われたから、高三の時、しょーがなく三四郎読んだ。頭痛くなる訳わかんねー話だった」
蒼樹嬢に椎の木の陰が落ちて、その表情がわからない。
「そうですか、、あれは実は深い話なんですよ」
と、手を額に翳しながら俺の方に近付いてくる。
「あんたは、漫画と文学、どっちが好きなんだ?」問い掛けてから、愚問だな、と思った。
「漫画に決まっているじゃないですか」

鬱蒼とした林に囲まれた、このいわくつきの庭園はなんとなく、陰気である。
「動物園、また行こうぜ」
俺が手を差し延べると、先細の白い指を女が伸ばす。
白いレースペーパーで包まれたような、綺麗な女だ。
「椎の木は、、今は、実は生っていないの、、」
女が小さく、呟いた。

蒼樹嬢が一冊の薄い文庫本を読んでいる。
こいつはこんなに綺麗だけれど、実は野性児と同じで遠視である。
だから、近くを見る時だけ、眼鏡をかける。
眼鏡をかけると、いかにも女教師、といった風で、似合いすぎて、近寄りがたい。
眼鏡を外して、本を閉じ、ふう、とため息をついている。
「夢十夜、て読まれました?」
閉じた本は漱石の夢十夜。
「夏休みの課題図書でサ、いっちばん薄っぺらいからって買って読むハメになった。高一の時」
「どう、思われました?」
「どうって、、ヤベーの買っちまった、訳わかんなかった」
うっすらと内容が思い出され、百年男を待たせたあげく、百合の花になった女の話が、一番最初にあったな、、、
「あれは、漱石の死生観と、絶対の孤独感を表しているんだと、思いますよ、、」
この女の大きく澄んだ瞳の色は、池や湖みたいに色を変える。
明るく澄んでいるかと思えば、今のように底が無いほど深く沈んだ色にもなる。睫毛が、影を、つくるんだ。
この瞳で俺を見つめる。
いや、正確に言うと、俺を通り越したものを見つめている気が、する。
ぞくぞく、とする。
何故だろう。
急カーブに突っ込む直前のような、恐怖と歓喜の隣り合わせのような感じ。
この瞳の、奥の奥には、何があるんだろう。
一人の、少女が見える。
真っ暗な孤独の淵に一人、佇んでいる少女。
「福田さん、漱石もちゃんと読まれているんですね、、尊敬します」
「いや、あんたこそ、漫画読んだり、文学読んだり、、、普通じゃ入れない大学入ったり、凄いじゃんか、、」
「、、そんなこと」
蒼樹嬢の瞳のいろが、いよいよ、深くなっていく。
駄目だ。
俺は、お手上げだ。
煙にまかれた、ボンクラの三四郎のように、この、不思議な、想う度せつなくなる女の前では。
美禰子と優梨子はどこか、似ている。
好き、とか言えずに、俺はただ、この綺麗な女の前でストレイシープになっている。
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