倉庫2

□拍手文
1ページ/1ページ

**

学校というものに行ったことがない天才ピアニスト様は、特殊な環境で育ったせいか、一般的な行事におそろしく疎い。
キマツシケン、レポート、イッパンカモクタンイオトセナイ、と難解な呪文のように復唱していたが、おそらく内容はわかっていないと思われる。
事実、試験前から2週間バイトの休みを入れた一護に、「くろさきサンも軟禁?」とあまり人様に聞かれたくない単語を宣った。
その上「頑張ってレポートしてね」と見当はずれな励ましまでしてくれた。そっちのレポートじゃない、とツッこむのも阿呆らしくて、ああとかおうとか適当に返したのを覚えている。

そんなやりとりから、16日。
ぱったりと会わなくなって、16日。

それまで、バイト先に行かなくても道でばったり出くわすこともあったのに、「頑張って」と別れてから一切会えなくなった。
人づてに、相変わらずふらふらしているとか10分前までそこにいたとか昨日一護が帰った3分後に来たんだぜとか聞くたび、無意識に接触を避けているのだろうと知れた。
常識も知識もごっそり欠如しているが、浦原は、言葉以外の情報に敏感だ。表情、声音、間。面倒だからと適当に返した一護の態度を、「だから会いたくない」と真っ直ぐ翻訳したのだろう。
一護がもういいよと思っても、同じ街に住んでいても、浦原がそう思わない限り会えない。

会いたい、と、思ってくれない限り。

「…………」

発信機も人海戦術もかわしてしまう人間を捕まえるなんて、しがない大学生には土台無理な話。
昨日、演奏中を狙ってバイト先に行ったのに、たしかにこの目に耳に浦原を捕らえたと思ったのに、一護がはっと気づいたときには、その姿は消えていた。
いつもなら、空気より自然に近づいてくるはずが……視線すら合わないまま、消えた。

だから。


「……あー……」


とうとう、幻覚。
金髪が視界をかすめたような気がして、一護は自嘲の息を吐く。
ただいま、と独り言を言うのも空しいワンルームのアパート。まだまだ昼の盛りだというのに、カーテンを閉めきった灰色の世界。
しずんだいろの、

「レポートできなかったんスか?」

しずんだいろの、

「…だからそっちのレポートじゃなくて、論…」

灰色の空気に染まった、…金髪。

「ロンて何?」
「…う、らはら、さん?」
「? アタシがロン?」

電気もつけずに、上着も脱がずに、ラグの上にだらりと座りこんだ男の首がかくりと傾ぐ。
この噛み合わない感じは、夢じゃない。現実だ。
本物だ。
「え……、は?何で俺んち……え?鍵は?」
「鍵なら、右手に持ってますよ」
「あ、そうだよな、今開けて入っ……、鍵閉まってたよな!?」
「ええ、閉めました」
「じゃなくて俺今朝閉めて出たはずだよな!?」
「ええ、閉まってました」
「じゃあ浦原さんなんで部屋ん中にいんの!?」
「会いたかったから。」

違う!動機を聞きたいんじゃない!
けろりと言ってのける浦原に、一護は膝から崩れ落ちた。
16日ぶりの直球。問いただしたいこともツッこみたいことも山ほどあるが、会いたかった、という台詞が脳細胞と心臓に与えたダメージはそれらすべてを凌駕した。

「浮竹サンが、もういいよって教えてくれて」
にこにこと嬉しそうな浦原は、16日前と同じ笑顔。するりと細められた瞳が、一護だけを映す。
「明日からバイトって言われたんスけど、早く会いたかったから来ちゃいました」
「あ、そ…か」
長い足を床にのばし、男は屈託なく笑った。いつからいたのかは知らないが、何をするでもなくくつろいでいたようだ。
緊張感も気負いもない浦原の様子につられたかたちで、一護は一気に脱力感を味わう。
ぞんざいに扱われたからとかじゃなく、「よくわからないけれど会えない期間」だから会わない、と認識していただけなのか。

「…まあ、何だ。茶ァくらい、いれてやる」
「わーい」




一ヶ月後。鍵のかかったドアを一瞬で開けるという神技を目撃した一護は、天才ピアニスト様の胡散臭そうな過去と未来に、一抹の不安を覚えた。



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ