ゆめ(背景)

□足りないだらけ
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その日の数学の授業は自習、だった。
正直言って、先生に自習を言い渡されて、素直に1時間も真面目に勉強に勤しむ生徒なんてそうはいないものだ。少なくとも、この1年7組には。それはわたしも例外ではなくて、せっかくの自由なこの時間を、次の授業までにやっておくようにと配られた数字だらけのプリントを終わらせるだけで潰してしまうなんて、これ以上にもったいないことはないと思っていた。ただ、何をするかと言われれば特に何かしたいことがあったわけでもなくて。さっきからシャーペンの先でプリントの端っこをなんとなくコツコツとつつくだけ。とにかく、とてつもなく退屈なこの時間を数学に割くことなく、なんとかして潰そうと試行錯誤していた。

「ねェ、何聴いてんの?」
「へ?」

鞄に投げ込まれたままだったミュージックプレーヤーを手に取り、お気に入りフォルダに入った曲を片っ端から聴いていると、ついさっきまで机に突っ伏してのんきにお昼寝していた前の席の水谷くんが、急にこっちを向いて、そう言った。

「わぁ、びっくりした…」
「へへ、ごめんねぇ」

太陽の光を受けてきらきらする少し長めの茶色い髪の毛にちょっとだけ寝癖をつけて、へにゃりと情けなく笑う水谷くん。これ、やる気しないよねぇ、とわたしの手元のプリントを指差して言う。机の上に置き去りになった彼のプリントは配られたときの状態そのもので、当たり前のように真っ白だった。

「ね、イヤホン、片方借りていい?」

無邪気な笑顔で問い掛けられる。そういえば、さっきの質問にはまだ答えていなかった。こくん、と小さく頷くと、水谷くんはわたしの首にぶら下がっていた右側のイヤホンを摘んで、自分の耳に近付ける。コードの長さに限りがあるせいで、無意識のうちに彼との距離がぐんと近付いた。さっきよりもさらに近くなった、水谷くんの横顔にトクン、と心臓が反応する。好き、と呼ぶにはまだ早過ぎる気がする、けれど。でも、ちょっと気になる男の子。

「だって自習なんてやってらんないよ〜」
「う、うん」

水谷くんのいる西浦野球部の試合には、わたしも何回か応援に行ったことがある。試合中、わたしの目に映るのは、いつだって水谷くんの姿だった。ううん、勝手に映るんじゃなくて、わたしが無意識に彼を目で追っているんだ。田島くんみたいにたくさん活躍できなくたって、メットを被って真剣にバットを構える彼の姿は何度見てもかっこいい。教室では阿部くんにはいつも怒られてばかりで、なのにすぐにちょっかいを出しに行くのは、きっとみんなに構ってもらいたいからで。能天気にも見えるけど、すごく寂しがりやなんだろうなぁとも思う。

「こーゆーのも、聴くんだね」
「違う風に見える?」
「んーん、趣味合いそーだなって」

目元をへにゃっとさせて、水谷くんは笑った。優しい、なぁ。アコースティックなメロディーに頭を支配されながら、ああ、これが好きってことなのかな、とぼんやり考える。そのとき、視界の端で、ふんふんと小さく頭を揺らして静かにリズムをとっていた水谷くんが、ぱっと嬉しそうな笑顔でわたしの方を向いた。

「俺も、好きだよ!」
「へ…!」
「このバンド、俺もよく聴いてるんだよね」

ああ、びっくりした。音楽の話、かぁ。当の水谷くんは相変わらずにこにこと屈託のない笑顔で、思わず肩の力がふっと抜けてしまった。不意打ちにあんな台詞、反則だ。

「先月出たアルバム、もう聴いた?」
「う、ううん、まだ」
「あ、じゃあさ、俺貸すよ!持ってるから」

明日持って来んね、と言って、また笑う。野球部のみんなはこんな水谷くんの笑顔を、何もしなくたって毎日見られるんだろうな。わたしも、もっとたくさん水谷くんの笑顔が見たい。いっぱい話もしたい。だから、みんながちょっとうらやましい、けど。

「このプリント、次の授業までに終わらせなくちゃね」
「うえ、そーだった〜」
「一緒に、やろっか」
「えっ!いいの!」

今、この時間だけは、水谷くんはわたしだけに笑ってくれている。向こうの席に座っている千代ちゃんが、ちいさく親指を立ててわたしにウインクした。




足りないだらけ
































101112
初挑戦水谷くん。
最近振りばっかり。


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