100題
□016.足跡をたどって
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「ねえきみ、ちょっと、待っておくれよ」
とある休日のことだった。
学校の課題に行き詰って、ちょっと外の空気を吸おうと散歩をはじめて十数分。
ともすれば木々のざわめきにかき消されてしまいそうな、儚い声だったと記憶している。
振り返ると、一人の青年が立っていた。
青年と言うのは語弊があるかもしれない。
そいつはたしかに青年と呼べる外見をしていたが、おそらく、いや、俺の今までの経験から言って、明らかには「ヒト」ではないものだ。
今の時代には不釣り合いな藍色の着物の袖をゆらめかせながら、その男――こういった類の生き物に性別があまり関係ないことは重々承知しているが、個人的な判断でそれは男の見た目をしていたから、そう呼ぶことにした――は、やっぱり、と一人満足そうな顔をした。
「思った通りだ。それ、きみが付けていたんだね」
俺の足元を指差し、男は微笑った。
下を向いても特に変わったものはなかった。
見なれた足元。
何を「付けて」いるのか。理解できなくて反応に困っていると、男はああと声をあげた。
「それのことさ。きみの 足跡 だよ」
「足跡…?」
歩いてきた道を振り返ってみても、足跡と呼べるものはひとつも見つからない。
「あれ…なんだ、見えないのか。そうか。きみには見えないのだな。もったいない。」
残念だ、と男はまた微笑った。
さっきよりも少しだけ寂しそうだった。
「お前には、何が見えているんだ」
「さっきも言っただろう。足跡だよ。とても綺麗な、色鮮やかな、それでいて温かい、足跡さ」
「そうか…。俺の知っている足跡とは随分違う」
「ほう。きみの知っている足跡は、どういうものなんだい」
「改めて説明を求められると困るけど…そうだな。こういうなんでもない道にできる足跡なら、自分の靴の汚れが付いてできる、どちらかと言えばつけてはいけないもの、だな。あとはやわらかい土の上を踏んでできる、ただの靴の跡。それくらいなもんだ」
「へえ、面白い考えだ。それでいて、とてもかわいそうな考えだ」
男はその場にしゃがみ込むと、俺の目には見えない「足跡」をそっと指でなぞった。
「これは、きみがここを確かに歩いたという証だ。そして足跡は付けた本人を映す。きみの心が温かいから、足跡も温かい。きみの心が満たされているから、足跡は鮮やかに色づく。つけてはいけないなんて、言ってくれるな」
「お前の足跡は、どうなんだ」
「ぼくの足跡は、なんとも詰まらない足跡だよ。温かみもなければ、色もない。昔は違ったのかもしれないけど、昔のことなんて、昔すぎて、思い出せやしない。誰かが覚えていてくれるなんてこともない。ぼく以外のやつらは、足跡なんて見えやしないといつもぼくを笑うからね。」
ふいに顔をこちらへやって、また、微笑った。
さっきよりももっと、悲しそうだった。
「素敵な足跡を見つけるとね、その持ち主にも見せてやりたくなる。それときっと、もしかしたらぼくが見える足跡を見ることができるんじゃないかと、期待しているんだろうね。叶ったことは一度もないけれど」
見たいと、思った。
この目で見てみたいと、思ったんだ。
この男には何が見えているんだろう。
どんなに綺麗なものなんだろう。
見えないことがとても悔しかった。
「すまない。余計なことで足を止めさせてしまって。素敵な足跡を見せてくれてありがとう」
いつか、見える日がくるだろうか。
「いや、とても面白い話だったよ。ありがとう。…また今度、足跡の話を聞かせてくれないか」
「これは驚いた。ぼくの話をちゃんと聞いてくれるやつは、君がはじめてだよ」
「足跡を誉めてくれたのは、お前がはじめてだよ」
「はは、そうだろうな。うん。また話そう。きみの足跡ならまた見つけられそうだ。会いに行くよ。足跡をたどって」
「ああ、待ってる」
『足跡をたどって』
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夏目を、とのリクエストを頂いたので…。ありがとうございました。
13.7.14 漆島
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