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あなたの隣に誰かいる[9]


電源の上に添えられた親指は動かないまま、帰る時が来たようだ。
片割れを失った頭は上手く機能しない。
仕事と、高杉のことと、土方は参っていた。

「まもなく――」

降りる駅の名前が唱えられる。
車内の数人がその瞬間、重い腰を上げた。
荷物を取ったり、上着を羽織ったり、少々騒がしくなり、土方もそれに流された。

脱力した身体を運んでくれる便利な道具ともおさらばだ。
降車すると、土方は暫し茫然としていた。
高杉と過ごしていたこの土地の空気は、今は苦くて仕方ない。

向こうを出発した頃と、空の色は一変していた。
たった数秒で昼から夜に転換してしまったようだ。
腕時計を見た。9時半を指していた。
熱い。風呂に入りたい。

管理人に挨拶をすると、「おかえりなさい」といつもの愛想良い返しだ。
そんなものですら救いになった。

「ああ、おかえりなさい」
「え?」

管理人の目が自分を横切ったのを見、土方は振り返る。



「土方さん、どうも」



見覚えのある顔に、あっと声をあげる。

「ああ、えっと……杉田さん、だっけ」

記憶の辞書を必死に引き出し、何とか出てきた名前を告げた。
相手の表情が曇ることはなかったので、自分の記憶が正しかったことに安堵する。

「あんた、働いてるんだ…」

初めて見るスーツ姿に、思わずそんな言葉を零してしまった。
遊び人風の男でも、黒いジャケットを羽織り、ネクタイを絞めただけでこんなにも男前になるのかと感心する。

「ええ、よく言われます。これでも社会人やってますからね」

悪くは受け止めなかったらしい。彼は相変わらず爽やかな笑みを浮かべていた。

「出張帰りですか、どちらに?」
「ああ、大阪のほうまでな。本社がそっちなんだ」
「よく行かれるんですか?」
「月3…多い時は毎週だな。たく観光気分にもなれねえよ…この前もそうだ。長崎まで飛ばされたんだが、これまたあれで…」

向こうが聞き上手なのかもしれないが、いつも以上に饒舌な自分に気づく。
日常の一部であった高杉の抜けた穴は大きすぎる。
とにかく気を紛らわせるための話し相手が欲しいと思った。
仕事の疲れはあるが、どん底な気分を持て余しているこんな夜は、記憶をふっとばすくらいに誰かと飲み明かしたい気分だ。
ああ、彼でもいいかもしれない。
堅実そうだし、話していて悪い気は全くしない。

「なあ、飲みにでも行かねえか?」
「え?」

知り合ってから間もないのだから、何の約束もなく誘われて驚くのは当然の反応だ。
だが男とはそこを軽々と飛び越えられる性質の生き物だと思っている。

「飲み、ですか?」

無理強いしたつもりはなかったが、勢いで誘ったからそんなふうに取られたかもしれない。
あるいは、下戸なのか、明日朝早いのか。
すこし困った顔をされた。

「ああ悪い。早く帰りてえよな」
「いえ…」

はい、とは言えないだろうが、態度には出ている。
彼の物腰は威圧的とはほど遠いが、あくまでノーを突き通している。それが分からないほど土方も馬鹿ではない。
引き下がらなければならないが、気分はガタ堕ちだ。

「飲むのは好きなんですよ。でも待ってる人がいるもんで…」
「え?」

向こうからフォローが入ることで、こちらもやや調子を取り戻せたものの、その言葉にふと首を傾げる。

「あんた、一人暮らしじゃなかったっけ?」

このマンションに来た時は、確かにひとりだった。

「ええ、最近一緒に暮らし始めて…」

誰とは言わなくても、言葉の端々にそんな匂いが漂っていた。
ややはにかんだ仕草。嫌でもわかった。
この男は恋人と同棲し始めたのだ。

こちらは恋人と別れたのがついこの間のことなのに。

「そっか。よかったな…」
「有難うございます」

全然そう思わない。まるで天国と地獄だ。
顔が引きつり気味だったが、向こうは土方の言葉を素直に受け入れたらしく、嬉しそうにニコニコしていた。
差しで飲まなくて正解だった。
愚痴を聞いてもらうつもりが、酒の入った向うから惚気話を聞くはめになり、落ち込むこと山の如しだ。

「じゃあ、お疲れさん。お互い明日もがんばろうぜ」
「ええ、おやすみなさい」

杉田が鞄から鍵を取り出す間に、土方はさっさと部屋に入る。
彼の恋人が杉田を慈しみ迎え入れるところなど見たら、尚更ショック倍増だ。
その恋人が高杉だとは思いもよらず、
鍵を閉めた土方は孤独な闇の空間を取り払うべく、すぐさま明りをつけた。










高杉の杉田に対する愛情は、かつて銀時を愛していた時の純粋な気持ちとは程遠かった。
この過去の遺物が高杉の人生のウェートをしめすぎている。
それを除けば、もっと心から笑って愛を囁きあえるかもしれないのに。

「じゃ、行ってくる」
「うん行ってらっしゃい」

だけど努力する。彼も努力してくれているだろうから。
玄関で靴を履き、腰を上げた杉田にひしと抱きしめられた。

「離れたくないな…」

ありがとう。そんなふうに言ってくれて。
傍から見ればごくごく普通の恋人のやりとりだが、杉田の言葉は高杉にとってひとつひとつが特別なのだ。
舐めるだけなら甘いカプセルだが、噛み砕けば苦汁が口内に広がり、とてつもない嘔吐感を誘う。

「表まで送っていい?」
「もちろん。嬉しいよ…」

本当に嬉しそう。
たとえ杉田が坂田銀時の容姿をしてなくとも、自分はこの男に惹かれたかもしれない。
そうでなければこの関係は救われなさすぎる。

「飲みで少し遅くなるけど、何かあったら連絡してほしい」
「迷惑じゃない?」
「迷惑なもんか。寂しくなったらメールでも電話でも一本入れてよ。必ず折り返すから」

この手の約束は今まで悉く破られてきたから期待するのはやめていたが、どういうわけか、
この男の言葉は信じられる気がした。

キスを別れの印にする。杉田は一度背中を向けたら振り返ることはしなかった。
高杉は手を振り続けた。彼の姿が景色と同化してしまうまで、ただ只管に。
夢から引きずり出される感覚に、眩暈を覚える。

「ふう…」

空を仰いだ。何ていい天気なんだろう。
深呼吸して意識を繋ぎとめた。
安息にも似た虚無感を覚えつつ、勢いよく踵を返した。

そのまま部屋に戻るつもりだったが、そこで高杉は足を止めざるを得なくなった。
マンションの入り口のところで、管理人と立ち話をする人物を見たからだ。

「飲みすぎはだめですよ、お体に障りますからねえ」
「わかってら。んじゃ行ってくるわ」

久々にその肉声を聞いて、胸が張り裂けそうになる。
そうか、出張から帰ってきてたのだった。
逃げようかと思ったが、それは踏みとどまった。
すぐ隣の住人なのだから、自分と杉田の関係はそのうち彼の耳にも入る。
面倒事は早く済ませるべきだ。それに、彼にはきちんと自分の口から伝えなければと思った。

いろんな衝動に責め立てられたが、それらを振り切って高杉は土方を迎えた。

表に出た矢先に行く手を阻まれて、土方は顔をあげる。
瞬間、その目が大きく見開かれた。


「、晋助っ?!」


彼が自分の名前を叫んだ。
胸が詰まって、思わず目を背けてしまう。
いざ対面すると、後ろめたさで押しつぶされそうだ。

「おま…どこ行ってたんだよっ!」

泣きそうな声で一喝され、はっと向き直る。
素早く彼の身体が立ち塞がり高杉は逃げ場を失う。
肩を掴まれ、爪が皮膚に食い込んだ。
土方の掌の温度が諸に伝わってきた。

「連絡しても出ねえし…」
「………」
「心配したんだぞっ」

そのまま抱き寄せられる。
高杉の内部に、情の波がどっと押し寄せる。
そんなふうに言ってくれることを何処かで期待していた自分が呪わしい。
だめだ、動揺しては、と必死に自分に言い聞かせる。

「ト、シ…」

泣きたくなる。彼のことだって、本当は大好きだったのに。
この胸の中が、どんなに心の拠り所だったか。

「夢じゃねえよな…?」

浮ついた声。未だに全てが夢の続きのような気分だ。

「ここにいるっつうことは、戻ってくる気に、なったんだな…?」

その時の土方の顔を見ると、違うとは言えなくなった。
黙っていると、肯定の意にとられてしまった。

「よかった」と土方は嬉しそうに涙を浮かべる。
ああ、そんなふうに言わないでほしい。

「ごめん、晋助…俺が悪かった」
「ト…」
「あの時苛々してて、お前のこと全然考えてなくて…本当大人げなかった」
「…う」

違う。
大人げないのはこっちのほうだ。
土方は何も悪くないのに、喧嘩しても謝ってくるのはいつも土方のほうだ。
そういうところも好きだった。
そういうところに、散々甘えてきた自分が情けない。

「俺さ…やっぱり晋助いねえと駄目だ。お前がいねえと、調子狂うんだよ…」
「………」
「だから、また一緒に住んでくれよ…いつもみたいに、送ってってくれよ」

そう出来たら、どんなにいいだろう。
自分がそばにいるべき人間は杉田ではなく、この男のほうだということも、冷静になって考えてみればよくわかる。

過去に縛られていいことなんて一つもない。
杉田のそばで暮すことが現実逃避に等しい行為だということも十分理解している。

だけど…だけど。


「もういいんだ…」
「え…?」


それでも自分が選んだのは、杉田数馬だ。
土方の身体を突き放した。


「俺とお前は、終わったんだ…」


そう告げた時、なぜか笑いが込み上げてきた。
こんな自分は死んだほうがマシだ。だけど死にきれない愚か者なのだと、心から嘲笑したのだ。

「な…んで…」

土方は凍りついた表情で訊き返す。

「だってもう無理じゃん、俺たち。あまりにも不釣り合いだよ」
「晋助…」

高杉はとうとう笑いを堪え切れなくなった。
不釣り合いとは自分に対しての侮辱の言葉。

「戻ってきたんじゃ…ねえのか…?」
「戻る?どこに?ああ昔に?!言われてみればそうかも、なんて、ハハ…馬鹿みてえっ」

けらけらと薄笑いを浮かべる高杉に、土方はぞっとする。

「おま、大丈夫かよっ」
「何が?」
「何がってっ。変だぞお前」
「だからどこが?何が?」
「笑うな」
「無理」
「笑うなっ、しっかりしろっ」

土方は高杉の肩を揺さぶって、正気を取り戻そうとする。

「触んなよ」

冷めきった声が高杉の口から出る。
振り払われなくとも、その徹底的な拒絶に土方は手を引っ込めた。

「晋助…お前…何があったんだ…?」
「うるせえ」

刺々しい言葉で突っぱねてから、よし、と口元が吊りあがった。
今なら言える。
自分でも脳の一部が麻痺しているのがわかった。
酒に酔った感覚とよく似ている。
それを利用して、全部暴露してしまおうと思った。


「俺、数馬と付き合うことにしたから」


自分は既に土方以外の男と繋がっている事実を、真正面から突き付けてやった。
この発言が土方にどれほどの衝撃を与えるのか。

肝をすっぽ抜かれたような土方の顔を見れば、一目瞭然だ。
半ば“期待通り”だった。

「数馬って…誰だよ…」
「杉田だよ」
「え?」
「“お隣さん”の」

わざとそんな言葉を選んだ。
土方の顔が見る見るうちに険しいものになっていく。


「それ……どういうことだ…」


異邦人を見るような目で高杉を見据える。

さあ、俺を罵倒してくれよ。それで何もかも終わる。
自分でも不気味さを覚えるほどの乾ききった気分で、高杉は土方と完全に決別する時を待った。

「出て行って雨に降られたところを助けてくれたんだ。その後家にもあげてくれて…」
「家に…?」
「そのままの流れで、あいつと寝ちまった。わかった?そういうこと」

そんなことをさらりと吐けるようになった自分をおぞましいとさえ思う。

「それ…事実か?」

臓腑を抉られたような顔つきで、はち切れる寸前の声を震わせた。
その我慢の糸を断ち切ってやろうと、無雑作に最後の言葉を投げた。


「もう一度言おうか?あいつと寝たんだよ俺」


バチン。

左半面が焼けつくような熱を帯びたかと思うと、一瞬意識が飛んだ。

痛。

力なく項垂れると、左頬がじりじりと腫れていく感覚に、殴られたのだと察した。
土方が高杉に手をあげるのは初めてだ。
にも関わらず酷く落ち着いた精神状態で、高杉は掌を傷に宛がう。



「殺されなかっただけマシと思え」



彼の逆鱗に触れたことを全身で感じ取れるような捨て台詞だった。
蹲る高杉を余所に、土方は鞄を持ち直して立ち去る。
足音が消えると、肩の力が抜けた。

これでいい。これで…よかった。

「はは…俺ってすげえな」

迫真の演技だったよ。
よくやったと皮肉たっぷりに自分を褒めた。

「大丈夫ですかっ?」

二人のやりとりを終始観察していたのか、高杉の様子を見かねて管理人が駆け寄ってきた。

「大したことないですよ」
「そうですか…」

他人に踏み込ませたくない。
もう少しだけ演技をしてなさい、と神経の隅で声が聞こえる。
これだけ内面と外面を使い分けられる人間同士が愛し合い、信頼し合うことが奇妙でならない。

だが思うのだ。
その距離があまりにも開いてしまうと、人間は壊れざるをえないのだと。

部屋の前まで来た。
解放の兆し。バタンと扉を閉めた。

脱いだ靴を揃えもせず、一段あがって数歩進まぬうちに、膝が折りたたまれて床に座り込む。
土方と寝床を共にしていた数日前が、遠い昔のことのように思える。

さよなら、と呟いてみた。

突如襲ってきた喪失感に、高杉は声を抑えることなく泣き喚いた。
時には咳こんで、口周りにねっとりとついた鼻水を只管拭いながら、高杉は土方との別れを嘆き悲しんだ。



『もしもし…』

ひとりでは抱えきれない苦しみの解決策を何時間も暗中模索した挙句、手にしたのは携帯電話だった。

「数馬…」
『晋助?どうかした?』

高杉の瘡蓋のような声に、何かあったと向こうも察したようだ。

「寂しいよ、苦しいよ…数馬ぁ…っ」

もう自分が頼れる人間は彼しかいないのだ。

『わかった。大丈夫?今からそっち向かうから』
「え…」
『晋助出てこられそう?』
「え…あ…」
『ここからだと1時間以上はかかるからさ。もし出られそうなら途中の駅で落ち合おう』
「………」
『出られる?』
「…うん」

杉田の声で漸く息を整えた。
連絡してよかった、とほっと胸を撫で下ろす。

早く会いたい。
その思いひとつで、高杉は家を飛び出した。


ぼろぼろの顔を誰に見られようがかまわない。
走っても走ってもこの衝撃波からは逃れられない。
逃れるにはひとつ。

杉田の抱擁が必要だった。

「数馬っ」

メールで約束した駅で降りると、杉田がホームの端で待っていた。
仕事で疲労していたが、駆け寄る高杉を杉田は両腕を広げて迎え入れ、抱きしめた。

「どうした、晋助…」

酷い顔だ、と彼は苦笑した。

「もっと抱きしめてよ、死んじゃうくらい…っ」

それは、銀時に対しての言葉でもあった。
知ってか知らずか、杉田は優しい笑みを浮かべて頷いた。

大丈夫、大丈夫だよ。

それを繰り返し、高杉に呟きながら。


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