番外

□Beautiful Ruins
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牙を剥く 野良猫を想起させる程、音を立てて噛みしめられた歯。

いつもの優しく愛らしい弟とは思えない、敵意を纏った姿。




「どうして…」




まだ状況を信じられず、漏れ出す声。

今まで、約束を破って帰ってくることはなかった。

いくら私が危機的状況だからと言っても、その様子に気付くことが、果たして外から出来るのか。


弟が帰ってくる理由は、決まっている。



やたら重く感じる頭で、天を仰ぐ。

窓の冊子からはみ出した、半円の白いカップの底。

フチは、赤。


あぁ、あの女が置いたのは――――





    目印の、赤い、マグカップ





「ねぇちゃんは、ボクが守るっ!ボクがっ守るんだぁっ!!」



弟は、迷わず毛むくじゃらの ふくらはぎに噛み付く。

一緒に見たテレビのヒーローのように、逞しく、勇ましく、悪に立ち向かう。


初めて見る弟の姿に、彼は立派な男の子なのだと思い知らされる。

ただ甘えて守られる、そんな存在には収まれない、男の子。


私の、正義のヒーロー。




「いってぇ!!このっクソガキィィイ!!」




正義の攻撃にひるむ悪の親玉は、その醜く肥えた巨体を震わせ、足から離そうと服を掴む。

ただでさえ伸びきったトレーナーは、ビッと軽く音を立て破れ、小さな牙は、さらに深く男に食い込んだ。


男は叫び声とともに、弟の頭に拳を振り上げる。

鈍く重い音が、二度、三度。

足から口が離れる。

と同時に、片手に収まる頭を掴み、投げ飛ばす。


小さな体は箪笥に打ち付けられ、上に乗っていた物が落ちて、割れる。


一瞬の出来事だった。




「ったく、ふざけやがって!」




吐き捨てると共に、追い打ちをかける蹴り。


弟は、動かなくなった。







鈍く痛む腹部。

視界もぼやけ、切れる息。


そんな中、かろうじて残る意識を失うまいと、必死に保ち、腹這いで進む。


ガラスの欠片で切れる、手のひら。

早く手当をと、弟の身を怖々と抱き寄せる。

頬に触れて撫でても反応はなく、赤い手形を残すだけだった。


彼の名前を呼ぼうにも、呼吸が乱れてうまく声が出ない。

軽く揺すると、だらんと首が仰け反った。



ぞわぞわと背中を這う予感。



慌てて抱きしめ、胸に耳を押し当てる。

いつも聞こえる、トクン トクン と、小さく脈打つ心臓も、柔らかい温もりも、ありはしない。


ただ、じわじわと冷たくなっていく。

血色を失っていく。




      この腕の中にあるのは

          もう

        “弟だった”モノ





嘘だと何度も否定する。

夢だと何度も目を背ける。

耐えられない現実に身を揺さぶり、

狂いそうな胸の痛みを枯れた喉で叫ぶ。

いくら流しても足りない悲しみの涙は、

弟の身に降り注ぐ。




「チッ、うるせぇなぁ…少しは噛まれた俺の心配もしたらどうだ!」


「どうせ寝てるだけでしょ?明日になったら、けろっとしてるわよ、若いんだし。」


「そうだ、小便でもかけてやろうっ!」




カチャカチャと、男がベルトに手をかける。

「やだもう、ほんとにかける気?」と言って、笑いながら期待する、女の目。



男の黄ばんだ歯が、

女の欠けた歯が、

見えた。





     心の、壊れる音がした






そこからは、なんの感情も感覚もないまま、体が動く。


足元に転がるガラスの破片を掴み、男の首元に宛てがい、スライドし、腹を踏みつけ押し倒すと、胸部に先端を突き刺した。


噴き出す液体を浴びて、張り付いた笑顔のままこちらを見る女の頭を掴み、テーブルの角に打ちつける。


女の表情が分からなくなるまで、何度も何度も打ちつけ、動かなくなるのを確認して、床に転がす。


自分のしでかした事より、手や服にべったりとついた液体が気になって堪らず、その場で服を脱ぐ。


さっきまで痛くて思うように動かなかった体が、嘘のように軽い。


すべてから解放された。


そんな、肉体も精神も自由になった感覚を抱き、頬が緩む。


しかし、ふと目にした弟の亡骸に、その犠牲の大きさを知る。


たった1つの、守りたい者すら失った。


彼はまだ小学4年生だった。


夢もある彼が、これからという彼が、どうして死ななければならなかったのか。




「あなたも、私も、運が悪かった。」




ただ、私が死ななかったのは、

不運を自らの手で潰せる、力があったから。







シャワーを浴びて、汚れを洗い流す。


服は、1番お気に入りの、黒いワンピース。


そっと、花の髪飾りを弟の胸元にのせ、最期の別れを告げる。


あとは、我が家の全財産の5千円を手に、この家ともおさらばだ。


ざらついたドアノブに手をかけ、思い切り開け放つ。






「―――あぁけど、

 あなたが死んでしまった事が、

 私の、最大の不運よね。」






振り向き、もう一度 外に視界を戻す。


そうして、まだ明けきらない、灰色の街へと駆け出した。







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