狼と修羅

□黒い涙
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 僕は、いつもと同じ、絞首台へ続く廊下を歩いていた。今月に入って、今日で3回目だった。
 僕の仕事と言えば、朝、真っ黒な制服に着替える。職場へ着く前に途中で買ったサンドウィッチを食べ、オフィスへ行く。そこで書類にサインして、約束の時間までコーヒーを飲んで過ごす。5分前に絞首台へ向かい、絞首台には時間ぴったりに着く。罪状が読み上げられるのを待って、ゆっくりと一礼。スイッチを押す。再び、一礼。
 これだけだった。後片付けは僕の仕事ではなかった。
 たったこれだけの事を、僕は月に2、3回行った。それは平均で、という意味で、多い時には5回くらいあったし、少なければ全くない時だってあった。
 それでも僕は、毎月決まって売れっ子ホストが1ヶ月に稼ぐくらいの額を貰っているのだから、こんなにわりの良い仕事はないだろう。
 もうかれこれ3年ほど、こんな生活を続けている。この仕事を引き受けた時、僕の上司はとても喜んだ。というよりもむしろ、助かった、という顔だったかもしれない。
「やっぱり、引き受けてくれる人がいなくてね」
 何がやっぱりなのかは分からなかったけれど、上司は続けた。「家族持ちは特にね」
 たまに高額の給料につられて引き受けるひとがいるそうなのだけれど、大抵は半月もしないうちに辞めてしまうらしい。その内半分は精神崩壊を起こしているのだそうだ。僕の前任者もそうだったという。
「いやぁ、本当に助かったよ。もう、誰も引き受けてくれる人はいないと思ってたから」
 僕だってお金が手に入る事がとても嬉しかったから、こちらこそお金が無くて困ってたので助かりましたよ、と微笑んでやった。
 僕には家族がいない。父も母も数年前に事故で死んだ。兄弟はいなかったし、友達と呼べる人もいなかった。
 僕は、リリィさえいてくれればそれで良かった。
 僕の給料のほとんどは、リリィの治療費に充てられた。残りの給料で、僕は毎日、花やアクセサリを買ってはリリィの病室へ持って行った。時には本を。時にはおもちゃを。リリィの喜ぶ顔を見るたび、僕の気持ちは満たされていった。
 リリィは、僕の全てだった。
 リリィの笑顔のためなら、僕は命の危険すらいとわないだろう。でも、そんなものとは比べものにならないくらい良い仕事をもらえて、僕はとても満たされている。
 だから、ある日リリィが言った、「ヒトゴロシ」という単語の意味が、全く理解できなかった。
 それ以上に、苦しそうで絶望した、何か恐ろしいものを見るようなリリィの目の意味が、理解できなかった。
「人殺し」リリィは再び同じ言葉を吐き出す。
「そうなんでしょう!?死神!!悪魔!!人を殺したお金で、私を治療していたんでしょう!?」
 僕は、返事に困った。自分の職を他言してはならない、というのが、僕に課せられた唯一の条件だったからだ。
「善い人ぶらないで、私に構わないで、もう二度と来ないで!!」
 その大きな瞳に涙をいっぱいにため、その細く白い腕で自分の肩を抱くリリィを、苦しそうなリリィを、なんとかしたかったけれど、その原因が僕には分からなかった。
 空気に押されるように、僕は病室を出た。
 その後、どうやって帰ったのか、何を思って帰ったのか、全く覚えていない。
 例えば僕が夢の中にいて、それが夢だと気づいて、珍しい、これが夢だって分かるなんて。そんな気分だった。
 家に辿り着いた僕は、コーヒーを煎れて居間の椅子に座った。一口すする。
 異変に気づいたのはこの時だった。コーヒーが、微かにしょっぱい。
 そこで僕はやっと、自分が泣いている事に気付いた。
 泣くのなんて何年ぶりだろう。以前は、お金が無いせいでリリィの命を救えない事が悔しくて、よく泣いていた。けれども今の仕事に就いてからは泣く理由なんて無かった筈だ。
 そう、今も。
 何故かは分からない。けれど、もう取り返しのつかない事をしてしまったことは確からしかった。きっと、コーヒーの苦みが僕を夢から引き戻してくれたのだろう。
 僕の目からは涙が流れ続ける。僕を残酷な現実に突き落とした救世主は、もうしょっぱくて飲めたものじゃなかった。
 やっぱり、分からない。
 リリィ、僕はどうすれば良かったんだろう。
 君が病気だって分かった時、
 病気を治すには大金が必要だって分かった時、
 ある日役人が尋ねて来て仕事を持ちかけられた時、
 スイッチを押した時、
 君の涙を見たその時、
 僕は一体何をすべきだったんだろう。
 リリィ、リリィ。
 僕はどうすれば良かった?
 僕はどうすればいい?
 君を失ってしまったこの世界で、僕はどう生きればいい?
 リリィ、君のいない世界なんて、僕は……。
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