ニンゲンの世界

□崖っぷち
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 深淵の中、彼らは確かに存在た。


 暗白が支配する世界で、声が響いた。異物で、同物な者の声。
「ねぇ」
「あ?」
 視覚も嗅覚も味覚も効かないこの世界では、残る触覚と聴覚、後は科学的根拠のない第六感だけが頼りだ。こんな状況になって、人間の失ったものの無常さを知る。
 見れないということは触れる方法が分からないということで、六感は元よりあてにならない。声だけが存在を知る術だった。
「前ってどっちだと思う」
「知るかよ、そんなこと」
 存在を確かめたくて尋ねた問いに、実に真っ当な返事が返ってきた。もし知っていたら混迷になど陥っていない。
 けれど今同意してしまえば敗北になるような気がして、――敗北はとても屈辱的で、むっとなって言い返した。
「そうじゃないって。だってさ、今もし西を向いているとしたら、西が前でしょ。でも後ろを向いたら後ろが前になる。つまり、東が前になる」
 単なる意地で返しただけだったが、言っているうちにそれが自分でも不思議になってきて、相手も何も言わないことも手伝い持論を続けた。
「ねぇ、前ってどっち?きおなら分かるでしょ」
 『きお』と呼ばれたそこにいる筈の存在は、困ったように怒った。
 お前なぁ、と呆れたような呟きは褒められた照れ隠しも混じっている。
「俺に聞きゃあ何でも分かるって思ってるだろ。俺は神じゃないんだぜ?」
 言われてみればその通りで、前半は図星だったので少し気後れした。でも、
「でもさ、僕は前に進まないといけないんだよ?」
 拗ねたように文句を言うと少し笑う気配がして、いきなり感覚が増えた。多分、肩と首の辺りに。ああ、人間ってあったかかったんだ、と当たり前のことを思った。
「じゃあさ、俺が後ろ見ててやるよ。守ってやるから、背中預けろ。そいで、逆に進め。そしたら前分かるだろ」
 卑怯だ。
「何で前で引っ張ってやるとか言わないの。その方がかっこいいのに」
 かっこよくないけれど、こんなにも頼れる。人に頼ることに幸せを感じている自分が女々しくて可哀想で大っ嫌いだ。
 だって、とまたきおは笑った。ああ、ずるい。幸せをこれだけで感じてしまう。
「お前の方が強いから。俺は足元にも及ばない。あんまり自分を低く見積もるなよ、俺が認めてるんだから」

 一歩先は崖かもしれない。一歩後ろも崖かもしれない。でも、きおの作った「前」はそんなに悪くないなと思った。








2007/8/10 22:44
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