信玄の指示の下、家臣や侍女達が忙しなく屋敷を駆け回り祝言の準備を始める中、幸村は芹と共に自室へと戻った。
一月振りに顔を合わせた芹は、二人きりになった途端「済まない」と謝罪の言葉を口にする。

「随分と心配をかけてしまったようだ…」
「無論心配はしておりましたが、それよりも驚きの方が大きくて……某には何が何やら訳が分かりませぬ」

まだ困惑が治まらない幸村はよろよろと腰を下ろし、芹はその対面に座る。改めて対峙するとお互いに気恥ずかしく、幸村は僅かに目を伏せ、同じように視線を落とした芹は胸元から何かを取り出した。

「これを猿飛から貰い受け、京に滞在していた信玄公にお会いしてきた」
「これは……薬入れ、か」

漆塗りの薬入れには武田家の家紋、武田菱が描かれている。当然の事ながら、武田の家紋が入った品を持っているのは武田に所縁のある者だけだ。これがあれば信玄との目通りは容易だっただろう。

「……私の置かれた状況を知った猿飛は、信玄公ならば何とかして下さると思ったんだろう。実際その通りだった。私の話を聞き届けた信玄公はすぐに私を養女にすると言ってくれた………だから今、私はここに居られる」
「そのような事が……」

水面下でそんな動きがあったとは想像もできなかった幸村は、がくりと項垂れて両膝に置いた手に力を込めた。

「某は、情けない男だ……未だにお館様のお力添えがなければ、好いた者一人守れぬ…」
「それは違う」

幸村の手を包み込むように、芹の手が重なった。

「家臣達の言葉を聞かず、私との祝言を強行しても良いのに、幸村殿はそれをしなかった。そんな事を考え付きもしない。それは貴方が家臣や領民達を、何よりも大切にしているからだ」
「芹、殿……」

膝が触れるほど近付き、じっと見つめてくる黒曜石の瞳に幸村の顔が映り込む。

「守るべきものと私を天秤にかけたりしない。全てを救う為に尽力する、逞しく心優しい、唯一無二の強者。それが貴方。私が愛する、ただ一人のひと」

重なった手が離れ、膝立ちになった芹は幸村の頭を抱えるようにして抱き締めた。

「貴方に足りない物は私が補う。私が支える。だって、これからはずっと一緒なのだから」
「芹殿……」

唇を噛み締めた幸村は、目の前にあるあたたかな胸に顔を埋めて、華奢な体をしっかりと抱き締める。吸い付くように自然に、そう在るのが当たり前のように密着した体が愛しくて、目頭が熱くなった。

「……情けない姿を見せてしまい、申し訳ない」
「構わないさ。こんな幸村殿を見られるのは私だけだし」
「芹殿の前でならいくらでも情けなくなって良いと?」
「そこまでは言ってない。……まぁ、項垂れる貴方は結構愛らしくて、胸が高鳴る」
「愛らしい?それは芹殿の方ではないか」
「いや、貴方もなかなか…」
「いやいや、芹殿こそ…」
「……」
「………」

二人は抱き合ったまま吹き出し、くすくすと笑った。
改めて向かい合わせに座った芹の頬を、幸村は指先でなぞる。柔らかく微笑む芹が愛しくてたまらなくて釣られたように幸村も微笑むと、芹の笑みが殊更鮮やかになった。

「いつまでも、そうやって某の傍らで笑っていて下され」
「幸村殿も、その手を離さないで」
「ああ……二度と離さぬ」

力強く宣言し、どちらからともなく顔を寄せる。
重なった唇はあたたかく、二人の心を存分に満たした。










十日後、幸村と芹の祝言は恙無く執り行われた。
祝言までの期間、尚も婚姻を渋っていた家臣達は芹の人となりに触れる機会が多々あり、その清廉な気性と優雅な振る舞いに毒気を抜かれ、今では甲斐領主の奥方として認めるようになっていた。
祝言の後の無礼講の宴に招かれた領民達も、幸村と芹の仲睦まじい様子に心を打たれ、美しい奥方を諸手を挙げて受け入れた。
この祝言を誰よりも喜んだ信玄と佐助は盃を酌み交わし、寄り添い微笑み合う幸村と芹の姿に相好を崩す。そして二人の行く末に幸あらん事を願って盃を掲げた。






◇◇◇◇◇◇◇◇






屋敷の広間に掛けられた掛け軸を、幼子が大きな瞳でじっと見上げている。
四つの文字が大きく書かれているが、幼子はまだ字が読めない。うーんと唸って首を傾げていると、後ろから呼び掛けられた。

「お嬢、何してんの?」
「あ、佐助」

お嬢と呼ばれた幼子は、この屋敷の主である甲斐の領主、真田幸村の息女だ。幼子は佐助を手招きして尋ねた。

「あれ、なぁに?何て書いてあるの?」
「ああ、お嬢の父様と母様が祝言挙げた時に武田の大将が贈った掛け軸だよ」
「武田のじじさまが?」
「そ。書いてある文字は……お嬢にはまだ早いかな」
「えぇ〜〜!教えてよ〜」
「あ、ほら、そろそろ父様が奥州から帰ってくるぞ。出迎えしなきゃ!」
「馬の足音、聞こえた?」
「聞こえた聞こえた。行こう、お嬢!」
「ん〜〜………うん!」

まだ幼い娘は掛け軸の意味よりも、数日振りに屋敷に戻ってきた父親の方が大事だ。佐助の背中に飛び乗り、そのまま凄い速さで駆け出すのが楽しくて笑い声を上げる。その笑い声はすぐに小さくなり、聞こえなくなった。
静寂に包まれた部屋の中、恭しく掛けられた掛け軸にはこう書いてある。



【比翼連理】



比翼の鳥のように、連理の枝のように、いつまでも仲睦まじく支え合い、幸せに生きよ。
そんな信玄の想いが込められた掛け軸は、今の真田家を象徴するかのような輝きを帯びていた。













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