定色

□乱菊の狐
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乱菊にとっては自分だけの時間が止まっているようだった。

前を向いて歩こう

誓っていたはずだったが、気がついたら立ち止まって後ろばかり振り返っていた。

恋をしてみようとも思ったが、うまくはいかなかった。

結局最後には傷を舐め合うことになってしまう。

優しい人だった。けれど空いてしまった孔が塞がる事はなかった。

その後は暫くは荒れた。行きずりの男と一晩を過ごすような事もあったが、自分を安売りしたところで孔はますます大きくなるばかりで途方にくれやめてしまった。

元来楽しくないことはしたくない性分だった。

乱菊にとって今は仕事が趣味みたいなものだ。

小さかった隊長は、今では女にしては大柄な彼女の身長を少し越えた。すぐに爆発する幼さも消えて、頼もしく、彼の成長に目を細めるまるで年寄りのような生活が続いていた。

もっか、彼女の一番のお気に入りは四番隊舎近くにある古い喫茶店で珈琲を飲むことだ。

たまたま仕事帰りにぶらぶらしていた時に見つけた店だった。

落ち着いたヨーロピアン調の調度も申し分なく、席と席の間も広い。また、長居をしても迷惑がられることもなく気兼ねなくゆっくり出来た。その上一杯の値段もソコソコいい金額だからか、騒がしい客も少なくて居心地が良かった。十番隊とも遠かったから知り合いと会うこともあまりないというのも気に入っているひとつの理由だった。

軽い読み物などを持ち込んで、薄めの珈琲を楽しんで、その後軽くなにか頼んで、それに合わせた飲み物で〆る、そんなあっさりした週末を過ごすことが多くなっていた。

枯れ過ぎだろうと思うこともなかった訳ではない、誘いが減ったということはなかったし、それなりにお付き合いは疎かにはしなかったが、結局何もかも心から楽しめないのだから仕方がない。無理はするつもりはなかった。


........


その日は朝から小雨で肌寒い日だった。

なにを食べようかメニューをにらみ付けていたところへ、すとん、と軽い音を立てて誰かが前に座った。

実際のところこんな事も少なくないのだ。いくら隠れ家のようなこの店でも、乱菊の外見はやはり目立ちすぎる。うるさい蝿を追い払わなくてはならないことなど今だ日常茶飯事だった。

「な、キミ。前にも会うた事なかったっけ」

間延びした西国訛り。

乱菊は、うっとうしげに顔を上げて、そして、そのまま息を呑んだ。

「ギン?」

言ってしまってから口をつぐんだ。

そんな筈はないのだ。彼はもう十数年前に自分の前から姿を消した。何も残さず、すべてが消えたのだ。

よくよく見れば全然違う。

にこやかに笑うこの男の髪の色は柔らかな栗色。いつも市丸が湛えていた胡散臭い貼り付けた様な笑みではなく、優しげな顔。鼈甲色の小さな眼鏡。

ああ、似ていると思ったのは、切れ長の細っこい目の目じりにできる小さな笑い皺のせいだ。それ以外は全然似ていない。多分。

「あァ、堪忍や、なんか懐かしい様な気がして、つい声を掛けてしもた。」

無言の乱菊をしばし覗き込んでから、それでも彼は続けた。

「あっ、べたや。べた過ぎる思てはるやろ。くっそーやっぱりそうや。」

なんかちょっとうるさい。それに軽い。乱菊は呆れてしまって、顔をしかめながら、目の前の彼を見つめた。

「ちゃう。ちゃうんや。...んー、こんな筈やなかったのに。まいったなァ」

頭を抱えて あいつや あいつのせいや。荻堂め。乗せられるんやなかったなどと男は独り言を続ける。その言葉の中に、知った男の名前が出てきたために、乱菊はつい無視を続けるつもりだったのに声を掛けてしまった。

「あんた、荻堂の知り合いなの?」

男は一瞬黙ってそれから、うれしそうに

「ええ、同僚ですねん。ボク。4番隊の席官で、葛之葉いいます。よろしく。」

とまどう乱菊に掌を差し出した。

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