たんぺん
□駅ホームにて
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■駅ホームにて
杉下は電車が来る瞬間が嫌いだ。
線路越しのベンチに座っている彼を隠すからだ。
「……眠い。」
昨日のバイトが長引いた。あくびが次から次へと出て来る。
結構な寝不足の重い足取り引きずって、駅のホームへと向った。
こんな日程サボりたいと思ってはみるものの。
(………いた。)
フラフラと電車の停車位置に立った瞬間の高揚感で眠気も疲れも直ぐに飛んでしまうんだと杉下はあくびと共に苦笑をした。
下り列車のホームにあるベンチへ静かに座っている、名前も知らない男。
朝の気怠いホームで、本を読みながら電車を待つ学ランの男に。
杉下はどうしても目が向いてしまうのだ。
それは。
(『雪国』か…相変わらず渋い所いくな。)
線路を挟んだ目の前の学生が杉下との本の趣味が被っているだとか。
(俺はそれ、先週読んだ。)
杉下が読み終わるのを見計らった様に、同じ物やその小説を書いた作家の他の小説を読んでいる、学ランを上までキッチリと締めた男。
気付いたのは何時頃だっただろうか。
(今週から俺は宮沢賢治強化月間。)
背筋を伸ばした目の前の男に見せつける様に、ベンチにダルそうに座りながら文庫本を捲る。
その姿がとても綺麗で、活字を追いながら上目で男を見詰めた。
(こっち向けよ。)
活字しか追わない視線を、自分に向けて欲しい。
思った瞬間、見られたらどう反応して良いか分からないから向くなと、矛盾を繰り返す。
(どんな声なんだろ。)
想像でしかない目の前の男の声は、低く静かに杉下を呼ぶ。
そして一緒にどんな本が好きかとか、どんな作家がいいとか話すのだ。
スッキリとした涼しい顔立ちが、笑うと柔らかくなるんだとか。
杉下の脳内ではもう友達なんかになっていて、あれやこれやをしている仲に発展していた。
一言も話した事ないくせに。
遠目だが明らかに線が細そうで。
(話してみてぇな。)
向こうのホームに、何度足を運ぼうとしたことか分からない。
その度、彼との接点の無さに途方に暮れた。
ただ、本の趣味が被っているという小さい接点だけが杉下と目の前の彼を繋げていた。
それだけが杉下をどうしようもなく浮かれさせる。
(あぁ、こっち向けよ。……もぅ電車来ちまうだろ。)
巷で有名な進学校に通う彼に、不良の溜まり場と言われる工業高校に通う杉下は話す事さえ許されない様な気がして足がすくむのだ。
頁を捲る白い指に目を奪われる。
意志の強そうな瞳を飾るまつ毛の長さに胸が高鳴った。
深窓の令嬢に恋をした靴磨きのような切な過ぎる溜め息は、無粋なアナウンスによって掻き消されて逢瀬の終焉を知らせていた。
だから杉下は電車が来る瞬間が嫌いなのだ。
線路越しのベンチに座っている彼を連れ去って行くから。
(でも今日も見れたからラッキー。)
パタリと文庫本を閉じて電車に乗る為にベンチから身を起こす。
自然といつもの癖で目の前のベンチを見詰めてしまった。
「…っ!!」
見ていたのだ。
彼が。
(……嘘だ。)
文庫本と携帯と財布しか入っていない軽過ぎるカバンが腕から抜け落ちる。
膝から崩れそうな感覚に、震えてしまう。
線路越しの彼が、杉下を見ていた。
嬉し過ぎて、泣きそうになる。
実際泣いたのかもしれない。少しだけ景色がぼやけていたのだ。
心拍数が上がる。
頬に熱が籠る。そんなみっともない姿を見られたくなくて顔を背けたいけど。
彼をずっと見詰めていたいという欲求の方が強くて目を逸らせないでいた。
一瞬だけ目が合った。
逃げる様に活字に視線を戻すけど、明らかに動揺して上下している。
(目、合った……。)
絶対に気付いてもらえないと思っていただけに、衝撃が大きくて。
「…っ!俺、杉下っ!!お前は?」
叫んでしまった。
あれほど臆病に見詰めていたのに。
タガが外れると、一気に溢れる気持ちのまま彼に話しかけていた。
彼はビックリして目を見開いていた。
そして徐々に彼の顔が赤くなって行くのが分かる。
もうすぐ電車が来る。
人が溢れて来て、それでも一際彼が目についた。
朝の喧噪が耳に付く。
電車の騒音に眉を潜めた。
冬を連れて来る冷たい風が、適度に伸ばした髪を散らばせて。
煩過ぎる駅のホームで、それでも確かに杉下に聞こえて来たのだ。
杉下をまっすぐ見詰めて、想像より遥かに胸に響く声で。
「ひぐち」
と。確かに聞こえた。
その瞬間、何かが終わって、生まれた様な気がした。
それが恋だと気付くのに、時間はかからなかった。
取り敢えず明日は彼より早く来て、駅の入り口で声をかけようと計画しながら、杉下は軽い足取りで電車に乗った。
おはようと声を掻けた瞬間の彼の表情を想像しながら。
おわり
線路越しに遊ぶ約束を取り付ける男子高校生を見てしまったので衝動でつい書いてしまいました。