たんぺん
□車中にて
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■車中にて■
走っているのが奇跡的な年代物のブルーバード。
このハイブリッド世論が飛び交う時代に、佐々木は景気良く首都高で転がしていた。
「もうあっちは寒いってさ。」
チラリと横目で見詰めた先には、助手席に深く座る同僚の姿があった。
「憂鬱だな。」
神経質そうに銀縁フレームのブリッジを上げる。
偏屈な事ばかりを口にする薄い唇は、への字に曲がって明らかに嫌そうだ。
「お前、寒いの苦手なのにな。」
「……俺は多分、今後温暖化対策なんて言葉は無視するぞ。」
エアコンとコタツとストーブを焚きまくってやると、流れる景色を見ながら嫌味ったらしく吐き捨てていた。
首都高を抜け、空港へと向う道路をブルーバードが走る。
カラカラと何処からか聞こえる掠れた音を綺麗に無視して。
「遠野、風邪だけは引くなよ?お前長引くんだから。」
信号待ちのブルーバードは、プスンプスンとエンジンが何時もの様に悲鳴をあげている。
そろそろ駄目かもしれないと、佐々木はハンドルをゆるりと撫でた。
「せめて転勤先は南の方にして欲しかったな。」
佐々木と入社時より一緒の部署に居た遠野が転勤になった。
遠野の部下のミスを一身に庇って。
「佐々木、田沼を見捨てるなよ?彼奴は優秀だ。此処で立ち往生してる場合じゃない。」
「だからお前が犠牲になったってワケか?」
「部下のミスは上司の責任だろ?」
ニヤリと笑う、人の悪そうな笑みが昔と少しも変わらない。
自分にも他人にも厳しく時として甘い、一本筋の入った男。
ただ少しだけ、笑い皺が深く寄るようになって来た。
それだけだ。
「お前と田沼が上に掛け合ったと聞いたが?」
信号が青になって、再び佐々木は愛車のブルーバードを酷使する。
片手でスーツの胸ポケットからマルボロを取り出して、口にくわえた。
隣からすっとジッポーが出て来て、火を付けられる。
一つ大きく吸って、肺に煙が蔓延する。
吐き出す煙と共にそうだと答えた。
「お前がそこまで責任を被る事は無い。あのミスは連帯で責任を負うべきだ。」
吐き捨てた言葉と紫煙を籠らせたくなくて、窓を開ける。
ゆったりとした空気が入り込んで、ウェーブのかかった佐々木の髪を揺らしていた。
「いいいんだ、ずっと本社にいるだけじゃ、全体の流れが分からないからな。」
良い機会かもしれない。と見詰める視線は真摯過ぎて。
もう何も言い返せなかった。
「……遠野、お前この車好きだったよな。」
昔、研修で一緒にチームを組んで以来気があってずっと一緒に居た。
自然と互いの家に入り浸っていたある日、遠野が持ち込んだ大泥棒が活躍するアニメの映画。
その大泥棒を追いかける刑事がパトカーとして乗っていたこのブルーバードに、遠野は酷く気に入ってしまっていた。
「あぁ、好きだが。今更なんだよ急に。」
マニュアルを器用にパーキングに切り替えて、空港の入り口付近に停車する。
ゆっくりと遠野を見ると訝しげに佐々木を見ていた。
「…………お前がこの車好きだから買ったんだ。」
少しだけ目を見開いて、ただ真っ直ぐに見詰める眼鏡越しの瞳に居たたまれなくて、佐々木はハンドルに額を押し付けて独り言の様に呟いた。
聞いて欲しいくせに、今直ぐに遠野の耳を塞いでしまいたい衝動に駆られるのは。
「お前が……隣に座ってくれるから、買ったんだ。」
長年の蓄積された想いが強過ぎて、臆病になっているからかもしれない。
「お前が居なくなったら、俺もコイツもどうすればいいんだよ。」
親友として同僚として、それ以上に恋愛感情を多く含んだ遠野に対する気持ちは、今更ながら止めどなく溢れて来る。
営業成績をトップで独走する佐々木でも、想いを馳せる相手には何の交渉術も営業力も役立てられない。
「今更見捨てるなんて、あんまりだ。」
このガタガタのブルーバードと、想い過ぎて見詰める事しか出来ない男を置いて旅立つなんて酷過ぎると詰ってしまうのは、この車に遠野との記憶がありすぎる所為だ。
「……お前が、こんな趣味じゃない車に何年も乗ってる意味がようやく理解出来た。」
長い沈黙の後、ゆっくりと聞こえた凛とした声にソロリと視線を戻す。
そうだ。こんな車、佐々木の趣味ではない。
ただ遠野が好きだと言ったから買っただけなのだ。
買ったらきっと、乗ってくれるかもしれないと淡い期待を込めて見せに行った時の遠野の満面の笑みを、今でも忘れられない。
だから手放せないのだ。
未練がましいにも程があると、苦笑しか出て来ない。
「バカだな佐々木。遠回しすぎるんだよ。」
泣きそうなそれでいて嬉しそうに歪む遠野。
それうを見た瞬間ネクタイを無造作に掴み取り、衝動的にキスをした。
薄い唇は柔らかくて、さっき佐々木が吸っていたマルボロの味がした。
「……そんな事言われたら、期待するぞ。」
吐息さえ肌に触れる距離。
「仕事以外はお前って案外奥手なんだな。」
「男に好きだなんて普通言える訳ねぇだろ?」
壊れかけたラジオから時折聞こえる洋楽が、頭の遠くの方で気怠げに流れている。
「でも、もうこっちには戻って来れないだろうな。」
諦めを帯びたまつ毛が震える。
「バカだな。俺が上に行ってお前を連れ戻してやる。」
理性的な瞳が今は儚げで。
慰める様に瞼に柔らかくキスをした。
「だからまた、此処に座ってくれるか?」
将来を誓う様に、ゆっくりと遠野の手を取って厳かに手の甲へ唇を落とした。
「早く俺を連れ戻しに来い。」
「……とおの。」
「それまでは誰も、此処に座らせるなよ?」
「……とおの。」
「俺はこの車も、俺を乗せて運転してるお前も好きなんだからな。」
眼鏡越しに笑う遠野に、胸が締め付けられる。
出発時間が迫って来た。それでもやはり離れがたくて。
「遠野、好きだ。ずっと……この助手席は最初からお前のものだ。」
何たってお前の為に買ったんだからな。なんて冗談の様に笑って離したくない手を離す。
「次もこの車で向かえに来るから。」
「あぁ、行って来る。」
レトロな取っ手に手を掛けて、遠野は颯爽と北国へ向って行った。
帰り道、佐々木の機嫌は最高潮で。
彼の愛車も常日頃起こすエンストも起こさずに家路についたのだった。
助手席を予約している彼の為に、佐々木と愛車のブルーバードは今日も道路を疾走する。
(まずは上の偏屈ジジイ共を蹴散らさねえとな。)
のちに佐々木は脅威のスピードで人事を転がせる立場に出世した。
おわり